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朝比奈義秀(あさひなよしひで)は、鎌倉幕府侍所別当の和田義盛の三男。 母は不明だが、木曽義仲に仕えた女武者巴御前とも。 安房国朝夷郡を所領としたことから朝比奈を名乗ったのだという。 その伝説などから、大力武勇の猛者として知られている。 |
巴御前は、木曽義仲の妾で平家討伐に従軍した女武者として知られている。 『源平盛衰記』によると、1184年(寿永3年)の木曽義仲追討後、和田義盛は源頼朝に願い出て巴御前を娶り、生まれたのが義秀だったのだという。 ただ、『吾妻鏡』からすると、義秀は1176年(安元2年)の誕生なので時代が合わない。 |
善栄寺 (小田原) |
正行院 (横須賀市) |
小田原市栢山の善栄寺は、巴御前が木曽義仲と和田義盛の菩提を弔うために創建したと伝えられている。 横須賀市の正行院は、和田義盛が巴御前の菩提寺として創建したのだという。 |
『吾妻鏡』によると・・・ 1200年(正治2)9月2日、源頼家は小坪の海辺を訪れた。 笠懸を催した後、海上に用意された船で酒宴を催している時、頼家は泳ぎが達者という義秀にその腕を披露するよう命じる。 断るわけにもいかず海に入った義秀は、数町も往復してみせた後、波の下に潜って三匹の鮫を捕まえて浮かんできたのだという。 頼家は、義秀への褒美に、この日乗ってきた奥州の名馬を与えようとするのだが・・・ 以前よりその馬を欲しがっていた義秀の兄・和田常盛が「相撲の勝者に与えるのはどうか」と提案。 その話にのった頼家は、船を岸に着け、小坂光朝の屋敷の前庭に二人を呼んで勝負を命じた。 なかなか勝負がつかなかったが、義秀が優位となったところで、遺恨が残らないようにと北条義時が勝負を預かりにする。 すると、常盛は裸のまま名馬にまたがり逐電してしまった。 義秀は悔しがったが、見物していた者は大笑いだったのだとか・・・ 常盛が乗り逃げした名馬は、大江広元が献上したものだったのだという。 |
1213年(建暦3年)5月2日、和田義盛が北条義時に対して挙兵(和田合戦)。 『吾妻鏡』によると・・・ 御所に乱入した朝比奈義秀の猛威は「神の如し」で、戦った者は死を免れることはできず、五十嵐小豊次・葛貫三郎盛重・新野左近将監景直・礼羽蓮乗らが命を落とした。 |
高井重茂(和田義茂の子)は、弓を捨てて轡を並べて雌雄を決しようとしたが、馬上で組み合った二人はそのまま落馬し、重茂は討ち取られてしまう。 義秀が乗馬する前に北条朝時が刀で襲い掛かったが、かなわず傷を負わされてしまったのだという。 |
足利義氏は、政所前の筋替橋付近で義秀と遭遇。 義秀に鎧袖を掴まれた義氏は、馬に鞭を打って堀を飛び越えると、鎧袖がちぎれてしまったが、落馬もせずに逃れることができたのだという。 |
武田信光は、若宮大路の米町口(下の下馬橋付近))で義秀と遭遇。 両者は睨み合って戦おうとしたが、信光の子信忠が割って入ると、父に代わって死を選んだ信忠に感じ入った義秀は、戦わずして走り去ったのだとか。 のちに武田信忠は北条泰時に、 「皆朝比奈義秀の武威を怖れ、ある者は出会わないように行動し、ある者は見かけただけで逃げ去り、義秀に遭遇することは不幸だと考えていました」 と述べている。 |
『吾妻鏡』の記録にはないが、若宮大路の琵琶橋付近では、八田知家の四男宍戸家政が朝比奈義秀と戦って討死したのだという。 |
和田合戦では、義秀をはじめとする一騎当千の兵が奮戦したが、5月4日、和田義盛、子の義重・義信・秀盛らが由比ヶ浜で討死したことで、激戦に終止符が打たれた。 『吾妻鏡』によると、和田合戦で猛威をふるった義秀は、安房国へ逃れたのだというが、その後の消息は不明。 |
「瑜伽洞」(ゆがどう)は、和田合戦で敗れた朝比奈義秀が逃げ込んだ洞窟であるとも伝えられている。 |
朝夷奈切通 |
朝比奈の滝 |
鎌倉七口の一つ朝夷奈切通は、義秀が一夜して切り開いたと伝えられ、朝比奈の滝は義秀の伝説に因んで名づけられた。 |
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