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鎌倉時代、現在の下馬四ツ角から鶴岡八幡宮までは、馬の乗り入れが許されず、参拝するときはここで馬を下りた。 また、若宮大路を横切るときもここで馬を下りて礼拝したことから「下馬」と呼ばれるようになった。 現在も地名として残されている。 下馬四ツ角から由比ヶ浜方面へと向かうと鎌倉十橋の一つ「琵琶橋」が架けられている。 |
かつては、佐助川に架かる橋があって「下の下馬橋」と呼ばれていた。 現在、下馬四ツ角付近にその橋が復元されている。 下馬橋は3つあって、源平池にかかる橋(太鼓橋)を「上の下馬橋」、二の鳥居付近の扇川に架けられていた橋を「中の下馬橋」、そして下馬四ツ角の橋が「下の下馬橋」と呼ばれていた。 歩道のタイルは佐助川の流れをイメージしたもの。 |
かつて、下馬には芸妓の置屋「鶴本」があった。 この掲示板は「鶴本」の「透かし窓」をイメージして作られたもの。 |
下馬四ツ角からすぐの江ノ電踏切付近には、「大町停留所跡」が残されている。 |
1213年(建暦3年)、和田義盛が北条義時打倒の挙兵をした和田合戦では、、若宮大路の米町口(下の下馬付近)で武田信光と朝比奈義秀が遭遇。 両者は睨み合って戦おうとしたが、信光の子信忠が割って入ったことで、義秀は、戦わずして走り去ったのだとか。 |
泉親衡の乱から和田義盛の挙兵まで〜和田合戦『吾妻鏡』〜 『吾妻鏡』が伝える和田合戦 |
1271年(文永8年)9月12日、龍ノ口刑場へと護送される日蓮は、下馬橋で鶴岡八幡宮に向かい、「法門のために霊験を現わしたまえ」と大音声で請願したといわれている(龍ノ口法難)。 |
1864年(元治元年)11月20日、下馬で江ノ島・鎌倉見物にきていた英国人軍人ボールドウィン少佐とバード中尉の二人が殺傷されるという事件が起きた(鎌倉事件)。 事件を起こしたのは、攘夷浪士の間宮一と清水清次。 二人は逃げる途中、諏訪邸の諏訪の池で刀の血を洗い流したという(参考:諏訪神社 旧御用邸門)。 二人はすぐに逮捕され処刑されている。 |
一の鳥居の手前、鎌倉女学院横の遺跡。 鎌倉警察の建設のため発掘調査が行われ、鎧や埋蔵銭が発見された。 中世以前の鎧が発掘されることは珍しく、京都の法住寺殿に続いて二例目。法住寺殿は後白河法皇の院庁。隣接して蓮華王院(三十三間堂)があった。 |
中世から戦国時代の遺構〜下馬周辺遺跡〜(okadoのブログ) |
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