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鎌倉市立御成小学校のある地は、明治天皇の皇女のための御用邸の跡地。 御用邸は1899年(明治32年)の造営。 1923年(大正12年)の関東大震災で崩壊した後、再建されることはなく、1931年(昭和6年)に廃止された。 1933年(昭和8年)、御用邸跡地に鎌倉町立御成小学校が開校し、正門には御用邸の冠木門が引き継がれた。 地名ともなっている「御成」(おなり)は、御用邸にちなんで付けられた名称。 旧御用邸門を過ぎると鎌倉幕府の裁判機関だった問注所跡。 その先には、裁判の結果、無罪放免となった者が渡ったという裁許橋が架けられている。 |
旧御用邸門は、1955年(昭和30年)にコンクリート造に建て替えられた。 門標は高浜虚子が書いた。 |
御用邸の東北部分は、鎌倉御家人諏訪氏の邸にあったところで、そこには「諏訪の池」があった。 現在は鎌倉市役所の駐車場となっているようで、その姿を見ることはできないが、1864年(元治元年)、下馬で英国人殺傷事件(鎌倉事件)を起こした間宮一と清水清次が逃げる途中、この池で刀の血を洗い流したという話が残されている(参考:下馬)。 |
鎌倉幕府滅亡後の1335年(建武2年)、諏訪頼重は得宗北条高時の遺児時行を担ぎ上げ反乱を起こしている(中先代の乱)。 |
現在、鎌倉商工会議所横にある諏訪神社は、諏訪盛重が邸内に祀ったもので、以前は御成小学校内にあったが移築された。 諏訪氏は、信濃国諏訪神社上社の大祝(おおほおり)の職を勤めた氏族。 鎌倉御家人となったことで全国に諏訪神社が建立された。 |
北条得宗家の滅亡〜最後の得宗北条時行〜(okadoのブログ) |
御成小学校では、1979年(昭和54年)の発掘調査によって、半地下式倉庫跡や天平5年(733年)の銘が入った木簡が発見され、鎌倉郡衙の遺構と考えられている。 また、近年の調査では、大規模な建築遺構群などが発見され、鎌倉幕府の有力御家人・安達泰盛の屋敷跡の可能性があるのだという。 |
鎌倉市御成町19−1 鎌倉駅西口から徒歩3分 |
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