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泉親衡(いずみちかひら)は、信濃国小県郡小泉荘を本拠とした信濃源氏。 通称は泉小次郎。 横浜市泉区の泉中央公園付近一帯が親衡の館跡と伝えられ、中和田城・天王山城とも呼ばれる。 伝承によると、比企能員の変後、伊豆の修禅寺に幽閉され、北条氏に暗殺された二代将軍源頼家の遺児千寿丸を擁して、和田一族とともに北条義時を討つため、1212年(建暦2年)に築いたのだという。 |
『吾妻鏡』によると・・・ 1213年(建暦3年)、親衡は、源頼家の遺児千寿丸を将軍に据えて北条義時を討とうと画策したが、謀反に賛成する仲間を勧誘していた密使の安念が捕えられたことで企てが露見。 筋違橋付近に隠れていたが、捕縛するために派遣された工藤十郎らを殺害して逃亡。 その後の行方は不明となった。 泉親衡の乱は、和田義盛の挙兵へと繋がっていく(和田合戦)。 |
※ | 『吾妻鏡』では、親衡ではなく親平と記されている。 |
泉親衡の乱から和田義盛の挙兵まで〜和田合戦『吾妻鏡』〜 『吾妻鏡』が伝える和田合戦 |
泉親衡が馬を洗ったと伝えられている池。 一年中湧水が枯れたことがなく、旱ばつのときには村人が集まって雨乞いの願をかけてきたのだという。 |
最明寺の伝承では、打倒北条義時に失敗した泉親衡は、千寿丸とともに河越の地に落ち延びて出家。 親衡は静海と名乗り、1265年(文永2年)5月19日に死去。 千寿丸は道円と名乗り、のちに北条時頼から寺を寄進されたのだという。 ただ、千寿丸について『吾妻鏡』は、1214年(建保2年)、京都に潜んでいた和田の残党に再び擁立され、六波羅を襲撃しようと企てたが、11月13日、大江広元の在京の家人に一条北辺りの旅亭を襲撃されて自刃したのだと伝えている。 |
※ | 千寿丸は、壽福寺の栄西の弟子となって栄実と名乗っていたのだという。 |
※ | 一条北辺りの旅亭とは、仁和寺のことらしい。 |
京都の祗園祭のハイライトは山鉾巡行。 長刀鉾は、祗園祭の「前祭巡行」の先頭を行く鉾。 三条宗近が祇園社(八坂神社)に奉納した長刀を立てたことから、長刀鉾と呼ばれる。 鉾先の長刀の下に飾られているのは、和泉小次郎親衡の像。 親衡は、三条宗近の長刀を愛用し、山河を駆け巡っていたのだとか・・・ 京都祇園祭の長刀鉾と泉親衡 |
長福寺 |
須賀神社 |
長福寺は、泉親衡が道場として創建した寺。 長福寺に隣接する須賀神社は、京都の祇園社(現在の八坂神社)を勧請し、泉親衡館の鎮守として祀られた社。 |
神明社 |
滝前不動尊 |
神明社は、泉親衡館の鬼門の守護神。 滝前不動尊は、泉親衡の守り本尊。 |
宝心寺 |
宝心寺は、泉親衡が菩提寺として創建した泉龍寺を前身とする寺。 |
横浜市泉区和泉中央南4−22 相鉄いずみ野線「いずみ中央駅」から徒歩7分 |
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