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寒川神社は相模国の一之宮。 祭神は、寒川比古命(さむかわひこのみこと)と寒川比女命(さむかわひめのみこと)の二柱で、「寒川大明神」と称されている。 創建年代は不明だが、「関八州鎮護の神」として古くから崇められ、源頼朝、北条義時、武田信玄などの武将の篤い信仰を受けた。 |
『吾妻鏡』によれば、1182年(寿永元年)8月11日、北条政子が産気づくと、源頼朝は祈祷のための奉幣の使者を伊豆山神社・箱根神社と、寒川神社・大国魂神社・洲崎神社など近国8箇所の宮社に派遣している。 この時誕生したのは源頼家。 1192年(建久3年)8月9日には、鶴岡八幡宮と神武寺、大山寺、日向薬師・寒川神社など相模国の神社仏閣27ヶ所に神馬を奉納し、安産のための誦経をさせている。 この時誕生したのは源実朝。 |
北条政子の安産祈願所 延喜式内相模十三社 |
昔、相模国は、相武国と師長国とに分かれていたが、大化の改新以後は統合されて一つの国となった。 毎年5月5日の端午の節句に大磯町の神揃山で行われる「国府祭」(こうのまち)は、相武国の一之宮だった寒川神社と師長国の一之宮だった川勾神社がその座をめぐって争ったという故事にちなむもので、一之宮寒川神社、二之宮川勾神社、三之宮比々多神社、四之宮前鳥神社、平塚八幡宮と、相模国総社といわれた六所神社の神輿が一堂に集う。 |
1838年(天保9年)、相模国六社が集う国府祭(こうのまち)が終わった後、相模川の渡し場で寒川神社の氏子と前鳥神社の氏子が争いを起こし、寒川神社の神輿が川に落ちてしまった。 数日後、 南湖の網元・孫七がご神体を発見して寒川神社に届けたことが契機となり、毎年、神輿が南湖の浜に出向いて「禊」(みそぎ)をするようになったのだという。 |
二の鳥居 |
三の鳥居 |
一の鳥居の南には、源頼朝の重臣で相模国一宮を所領とした梶原景時の一宮館があった。 源頼家誕生時には、景時の次男・景高が奉幣の使者となっている。 景時が1200年(正治2年)に滅亡した後は、北条義時が領していた可能性がある。 |
1569年(永禄12年)、小田原城を攻めた武田信玄は、籠城する北条軍を攻めきれず撤退。 その時、寒川神社に立ち寄った信玄は兜を奉納したと伝えられている。 「六十二間筋兜鉢・附金具残闕三種」として県の文化財に指定されている。 |
寒川神社には、北条氏綱・北条氏康・北条氏政の署名のある棟札が残されている(寒川町指定文化財)。 |
1590年(天正18年)、豊臣秀吉の小田原征伐後、関東移封となった徳川家康は、翌年、100石の土地を社領として寄進する旨の朱印状を発給している。 |
寒川神社は、八方除の守護神として知られ、正月の三が日には関東一円から延べ40万人の参拝者が集まる。 |
神奈川県高座郡寒川町宮山3916 JR相模線「宮山」駅から徒歩10分 |
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