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平安時代の端午節会では、競馬(くらべうま)と騎射(うまゆみ)が恒例として行われていた。 弘仁年間(810-824)には、渤海国を通じて伝えられたとされる打毬(だきゅう)が競馬・騎射の後に行われるようになる。 |
馬術競技には軍事的要素も含まれていた。 そのため、天皇以外の者が催すことはできず、865年(貞観7年)には、私的に馬術競技を催すことを禁じる法令が出されている。 |
円融天皇の時代には、端午節会が一度も開催されなかった。 それは、冷泉天皇の時代に端午節会が廃止されたためと、端午節会が開催されていた武徳殿が焼亡してしまったためらしい。 984年(永観2年)、円融天皇の譲位によって即位した花山天皇は、985年(寛和元年)5月、武徳殿を再建するよう宣旨を下す。 そして、翌年5月、新造の武徳殿で端午節会を催した。 花山天皇が端午節会を催した一週間後、円融上皇は仁和寺で競馬・競射・打毬を観覧。 花山天皇と円融上皇が連携して王権を見せつけたとも考えられるが、どうも円融上皇は自らの勢力を誇示したかったらしい。 花山天皇は、この年の7月に出家してしまうが、端午節会の再開は皇権回復への意欲の表れとする説がある。 |
花山天皇は、寵愛していた藤原忯子の死のショックの中、藤原兼家・道兼父子の謀略により元慶寺で出家したとされている。 ただ、長年行われていなかった端午節会を再開させる意欲があった・・・ |
花山天皇に譲位した円融上皇が居住していたのは円融寺。 仁和寺の一院だったが円融上皇の死後は衰退し、室町時代、その跡地には龍安寺が創建されている。 |
上賀茂神社 |
下鴨神社 |
競馬と騎射は、5月に行われる葵祭の前儀として上賀茂神社や下鴨神社で行われている。 |
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