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藤原惟成(ふじわらのこれしげ)は、右少弁・藤原雅材の長男。 母は、藤原中正の娘。 953年(天暦7年)誕生。 |
惟成は、母が花山天皇の乳母を務めたことから、984年(永観2年)、花山天皇が即位すると側近として実権を握る。 花山天皇の外叔父の藤原義懐とともに荘園整理令をはじめとする新政をおし進め、五位摂政とまで称されたが・・・ 関白・藤原頼忠や、東宮・懐仁親王の外祖父・藤原兼家らと対立するようになる。 さらに、985年( 寛和元年)7月18日、花山天皇は寵愛していた女御の藤原忯子を亡くすと・・・ 悲しみのあまりに出家して供養することを考えはじめるようになる。 そして、986年(寛和2年)6月23日、花山天皇は兼家の三男・道兼に勧められ、山科の元慶寺で出家してしまう(寛和の変)。 惟成は、義懐とともに花山天皇に従って出家。 出家後は長楽寺辺に住み、989年(永祚元年)11月1日死去(享年37)。 |
花山朝の政策~花山天皇と義懐・惟成・頼忠・兼家~ |
花山天皇が出家した元慶寺は、868年(貞観10年)、藤原高子の発願により遍昭が開いた寺院。 |
花山天皇の退位を知っていた安倍晴明~寛和の変~ |
藤原忯子の懐妊と死~花山天皇は?父藤原為光は?~ |
『扶桑略記』や『愚管抄』によると、厳久という僧も寛和の変に大きく関わっている。 厳久は、懐仁親王の母・藤原詮子に従属していた僧なのだとか。 |
寛和の変の黒幕は…懐仁親王の母・藤原詮子か?厳久とは? |
花山天皇が東宮(皇太子)の時から教育係として仕えていた紫式部の父・藤原為時は、寛和の変によって官職のない「散位」の時代を十数ほど過ごすこととなる。 |
花山天皇と藤原為時~師貞親王の教育係と藤原兼家・藤原道兼~ |
藤原忯子は、藤原為光の娘。 忯子の実姉は義懐の正室であったことから、忯子の入内を望んだ花山天皇は義懐に命じて為光を説得させたのだという。 参考までに、出家後の花山天皇が通った四の宮(藤原儼子)は忯子の妹(参考:長徳の変)。 |
惟成には、清貧であった頃に支えてくれた妻がいたが、花山天皇が即位すると離縁し源満仲の婿となっている。 『古事談』によると・・・ 怒った元妻は、貴船神社に詣でて惟茂が乞食になるよう祈った。 すると、夢の中で「大きな幸を得た惟茂を今すぐ乞食にすることはできないが、少し待つように」と告げられたのだという。 それから間もなく花山天皇が出家。 惟成も出家して長楽寺辺りで乞食となり、元妻から食事や白米などを施されたのだとか。 |
貴船神社は、和泉式部が祈願して夫との復縁が叶ったことから縁結びの神として信仰されるようになった社。 結社には和泉式部の歌碑が建てられている。 |
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