|
法雲寺(ほううんじ)は、藤原兼家がに創建した法興院の庭園跡に建てられた寺院。 990年(永祚2年)、病に伏して出家した兼家は、病気平癒を祈願して別邸の二条第(二条殿・二条京極殿)を寺としたのだという。 兼家は、この年の7月2日に東三条第(東三条殿)で薨去。 戒名は「法興院」。 992年(正暦3年)には、法興院内に子の道隆が積善寺を建立。 清少納言の『枕草子』によると、 994年(正暦5年)2月21日、道隆は積善寺で、一条天皇の生母・藤原詮子や中宮・藤原定子の隣席のもとで一切経供養を行っている。 藤原行成の『権記』によると・・・ 1001年(長保3年)12月14日、法興院常行堂で詮子が不断念仏を行っている。 しかし、法興院は鎌倉時代に廃絶。 1615年(元和元年)、この地に清久上人が堂宇を建立して法雲寺となった。 正式名称は、清水山洗心院法雲寺。 本尊は阿弥陀如来。 |
994年(正暦5年)の一切経供養では、中宮・定子は参列のために二条宮へ里帰り。 その二条宮には、父の道隆が定子のために設えた造花の桜があったのだという。 |
二条宮の桜〜積善寺の一切経供養と清少納言が見た造花の桜〜 桜は中宮・藤原定子!〜清少納言が描いた桜は、散らない桜!〜 |
醍醐天皇の皇子・盛明親王の御所であったものを、988年(永延 2年)、藤原兼家が池や釣殿が設けた邸宅を造営。 藤原実資の『小右記』によると、翌年、競馬が催されている。 摂関家の邸宅には馬場が設けられ、藤原道長の土御門殿や藤原頼通の高陽院にも馬場が設けられていたのだという。 |
藤原兼家の葬送 藤原詮子の晩年 〜平惟仲邸が御所・藤原行成邸で崩御〜 |
境内に祀られている菊野大明神は、良縁は結び、悪縁は切るという縁切り祈願の神。 男女関係・友人関係・仕事関係・ いじめ・ストーカーなどに御利益があるのだとか。 御神体は、深草少将が小野小町への百夜通いの時に腰掛けたと伝えられる霊石らしい。 |
豊川大明神は、火災除け・厄除け・災難除けに御利益。 |
京都市中京区河原町通二条上る清水町364−1 |
大きい地図を見るには・・・右上のフルスクリーンをクリック。 |
|