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986年( 寛和2年)、花山天皇を出家させ、一条天皇を即位させて摂政となり、989年(永祚元年)には太政大臣となって頂点に立った藤原兼家。 990年(永祚2年)5月5日には関白となったが・・・ その3日後に発病し、関白の地位を長男の道隆に譲って出家。 同年7月2日、東三条殿で薨去(62歳)。 兼家が死去すると、遺族は東三条殿の渡廊の板敷を取り除いて土間とし(土殿)、喪に服するために籠ったのだという。 ただ、三男の道兼は・・・ 兼家が寛和の変で功のあった自分ではなく、兄の道隆を関白にしたことを憎み、土殿には籠らず、遊興に耽っていたのだと伝えられている。 7月9日葬送。 場所は鳥辺野の北辺。 火葬された遺骨は宇治陵に葬られた。 |
病となった兼家は、病気平癒を祈願して別邸の二条第に法興院を建てた。 法雲寺は、その跡地に建てられた寺院。 |
東三条院(東三条殿)は、兼家の邸宅。 ここで、長女の超子は三条天皇を、次女の詮子は一条天皇を生んだ。 |
鳥辺野は、平安京の三大葬送地の一つ。 五男の道長や道長の長男・頼通、長女・彰子も鳥辺野で火葬され宇治陵に葬られている。 |
宇治陵は、関白・藤原基経が定めた藤原北家一門の埋骨地。 兼家の次女詮子は、長男道隆の長女定子が葬られた鳥戸野陵で火葬され、宇治陵に葬られている。 |
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