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清少納言は、『枕草子』の「節は五月にしく月はなし」の段にこう書き記している。 「さて、春ごとに咲くとて、桜をよろしう思ふ人やはある」 (毎年のことだからといって、春に咲く桜の花をどうでもいいと思う人がいるのだろうか。いや、そんな人はいませんね。) |
清少納言にとって桜と仕えた中宮・藤原定子は特別な存在。 『枕草子』「清涼殿の丑寅の隅の」の段・・・ 994年(正暦5年)春、 清涼殿の北にある弘徽殿の上の御局(控えの間)には、大きな青磁の花瓶に桜の枝がたくさん挿され、欄干の外にまで咲きこぼれていた。 定子は女房たちに問題を出す。 「今、思い浮かぶ古歌を一つずつ書きなさい」 清少納言は、 「年経れば よはひは老いぬ しかはあれど 花をし見れば 物思ひもなし」 という歌を書いた。 これは『古今和歌集』に収録されている藤原良房の歌。 ただ、清少納言は「花をし見れば」の「花」を「君」に変えて書いている。 良房は、染殿后(娘の明子)の前に桜が挿してある花瓶を見て、娘を桜に例えて詠んだのだという。 上の御局の置かれた桜の枝が挿された花瓶は、良房の歌を導き出す演出だったらしい。 清少納言は「花」を「君」に変えているが・・・ 「桜の花」を「定子」に置き換えた。 良房は「自分は老いてしまったが、娘を見ていると、思い煩うことはない」と詠んだが・・・ 清少納言の思いは「定子を見ていれば・・・」ということなのかもしれない。 「置き換え」については、過去に例があった。 かつて、円融天皇が殿上人たちに「草子に歌を一首書け」と命じたとき、定子の父・道隆は、 「潮の満ついつもの浦のいつもいつも君をば深く思ふはやわが」 という歌の 「思ふはやわが」(帝を深くお慕いしております。)の部分を 「頼むはやわが」(帝の慈愛を頼りにしています。)と変えたことで、円融天皇から褒められたのだという。 |
『枕草子』には、満開の桜の描写はあるが、散る桜はない。 995年(長徳元年)、関白だった道隆が薨去。 翌年には、道隆の嫡男・伊周が長徳の変を起こして失脚。 娘の定子も苦境の日々を送った。 『枕草子』は、定子のために書かれた随筆。 清少納言は、中関白家(道隆一族)の衰退を連想させる「散る桜」は描かず、散らない桜(満開の桜)を描いた。 |
二条宮の桜~積善寺の一切経供養と清少納言が見た造花の桜~ |
清涼殿は、天皇の住まいとして使用されてきた御殿。 桜の枝が挿された花瓶が置かれていたのは清涼殿(平安宮の清涼殿)の北側にあった弘徽殿の上の御局。 上の御局は、藤壺(飛香舎)にもあって、女御や更衣が天皇をお迎えするための控えの間だった。 |
鳥戸野陵は、1000年(長保2年)12月16日に崩御した藤原定子の陵墓。 |
清少納言歌碑 (泉涌寺) |
今熊野観音寺 (泉涌寺塔頭) |
定子に仕えた清少納言は、晩年、定子の眠る鳥辺野近くの東山月輪に隠棲したのだという。 東山月輪に建てられた泉涌寺に歌碑がある。 泉涌寺の塔頭・今熊野観音寺付近には、清少納言の父・清原元輔の邸宅があったのだとか。 |
春はあけぼの~藤原定子と清少納言と枕草子~ |
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