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清少納言が一条天皇の中宮・藤原定子に仕えたのは993年(正暦4年)頃。 しかし、996年(長徳2年)、定子の兄弟伊周と隆家が長徳の変を起こして左遷されると・・・ 定子は里第の二条宮に下って落飾。 清少納言は「道長のスパイ」と噂されて引き篭もってしまったのだといわれている。 翌年、左遷された伊周の罪を許されると・・・ 一条天皇は、再び定子を宮中へ迎え入れた。 そして、定子は清少納言に戻ってきて欲しいという願いを込めて上質な紙を贈ったのだという。 これをきっかけに書き始められたのが『枕草子』なのだとか・・・ |
清少納言の歌~雪の山を作ったときに詠んだ歌~ 『枕草子』~雪のいと高う降りたるを・香炉峰雪簾撥看~ |
桜は中宮・藤原定子!~清少納言が描いた桜は、散らない桜!~ |
1000年(長保2年)12月16日の明け方、定子は一条天皇の第二皇女・媄子内親王を出産後に崩御。 清少納言も宮中を去るが、翌年には定子の才色兼備ぶりを書いた『枕草子』を完成させたのだといわれている。 |
藤原定子の出産・崩御と平惟仲、平生昌、清少納言、藤原道長 |
晩年の清少納言は、定子が眠る鳥辺野近くの東山月輪に隠棲したのだという。 藤原公任の『公任卿集』には、清少納言が東山月輪に返り住んだことが記され、 「ありつゝも 雲間にすめる 月の輪を いく夜ながめて 行きかえるらむ」 と詠んでいる。 東山月輪には清少納言の父・清原元輔の邸宅があったといわれ、泉涌寺の塔頭・今熊野観音寺付近だったといわれる。 |
東山月輪に建てられた泉涌寺の歌碑には、 「夜をこめて 鳥のそら音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ」 と刻まれている。 この歌は、藤原行成がよこした文に対して詠んだもの |
清少納言の歌~夜をこめて…藤原行成との贈答歌・逢坂の関~ |
清少納言と同族の清原頼業を祀る車折神社には、清少納言を祀る社が建てられている。 |
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