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今熊野観音寺(いまくまのかんのんじ)は泉涌寺の塔頭。 開基は弘法大師空海で、天長年間(824〜834)の創建と伝えられる。 伝説によると・・・ 空海は東山の地で老人の姿をした熊野権現に遭遇し、一寸八分の十一面観音菩薩像を授けられた。 その像を自らが刻んだ十一面観音菩薩像の体内に納め奉安したのだという。 平安時代後期になると、この地は今熊野と呼ばれるようになり、後白河上皇に「新那智山」の山号を授けられ、今熊野観音寺と称されるようになる。 正式名称は新那智山観音寺。 「昔より 立つとも知らぬ 今熊野 仏の誓い あらたなりけり」 (西国三十三所第十五番) 御詠歌は、西国三十三所中興の祖といわれる花山法皇が巡礼の際に木の短冊にしたためた和歌なのだという。 |
鳥辺野の南西の地(鳥戸野)は、古くからの貴族の葬地であったが、その葬儀や法要の多くは観音寺が営んでいたのだという。 鳥戸野陵は、一条天皇の皇后・藤原定子の陵墓。 また、醍醐天皇の中宮・藤原穏子、 円融天皇の女御・藤原詮子、 後朱雀天皇の皇后・禎子内親王、 後冷泉天皇の皇后・藤原歓子、 白河天皇の中宮・藤原賢子、 堀河天皇の女御・藤原苡子 の火葬塚でもあった。 |
清少納言は、その晩年、定子の眠る鳥辺野近くの東山月輪に隠棲したのだという。 今熊野観音寺付近には、父・清原元輔の邸宅があったのだという。 泉涌寺には清少納言の歌碑が建てられている。 |
桜は中宮・藤原定子!〜清少納言が描いた桜は、散らない桜!〜 春はあけぼの〜藤原定子と清少納言と枕草子〜 |
新熊野神社は、後白河上皇が今熊野観音寺の山麓に創建した新熊野社を始まりとする。 新熊野社は院御所・法住寺殿の鎮守社。 |
京都市東山区泉涌寺山内町32 |
泉涌寺は皇室の菩提所として、天台・浄土・律・禅兼学の道場として栄えた。 御寺の名で知られている。 |
京都市東山区泉涌寺山内町27 JR奈良線「東福寺」駅から徒歩 総門まで15分、大門まで20分 |
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