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端午節会で行われていたは競馬(くらべうま)・騎射(うまゆみ)・打毬(だきゅう)といった馬術競技は軍事的要素を含むもの。 そのため、天皇以外の者が催すことはできず、865年(貞観7年)には、私的に競馬や騎射を催すことを禁じる法令が出されている。 しかし、平安時代中期になると上皇や摂関による開催が見られるようになってくる。 藤原実資の『小右記』によると、997年(長徳3年)5月15日、左大臣・藤原道長は右近馬場で競馬を催している。 右大臣・藤原顕光をはじめ藤原斉信、源俊賢らが隣席した公卿との共同開催だったらしい。 |
『御堂関白記』によると、999年(長保元年)2月20日、土御門邸の馬場で競馬が催されている。 道長が自邸で開催した最初の競馬となるが、春日社に奉納するための予行だったのだという。 こういう先例は兼家の時代にもあったらしい。 ただ、9月には、3日、12日、14日と立て続けに私的な競馬が催されている。 藤原行成の『権記』によると、開催場所は姉・詮子の御在所。 本来は、7月に詮子が遷御する際に催す予定だったが、一条天皇が病気のため中止となっていたらしい。 先例に詳しい藤原実資は「稀有の事」と批判している。 1001年(長保3年)10月には、土御門邸で行われた詮子の四十賀に一条天皇が行幸した際、一条天皇を競馬に出御させようとしたが・・・ 人々の反発を招いたらしい。 |
詮子の御前で開催された競馬は、詮子が院号宣下(東三条院)を受けた女院なので、円融上皇が仁和寺で催した先例に基づいて開催されたという見方もできるらしい。 |
競馬・騎射・打毬~花山天皇と円融上皇と王権誇示の馬術競技~ |
999年(長保元年)は、道長の長女・彰子が一条天皇に入内した年。 この頃、詮子は土御門邸に同居させてもらっていたらしい。 |
上賀茂神社 |
下鴨神社 |
競馬と騎射は、5月に行われる葵祭の前儀として上賀茂神社や下鴨神社で行われている。 |
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