紫式部「光る君へ」


藤原兼綱と藤原資平
~三条天皇の蔵人頭となった二人~


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 藤原兼綱(ふじわらのかねつな)は、関白右大臣・藤原道兼の三男。

 1014年(長和3年)、三条天皇の蔵人頭に叙任。

 藤原資平(ふじわらのすけひら)は、賢人右府と呼ばれた藤原実資の甥(養子)。

 1015年(長和4年)、三条天皇の蔵人頭に叙任。


 2人が蔵人頭を務めた頃は、三条天皇は眼病を患い、左大臣・藤原道長から退位を迫られていた頃。

 さらに三条天皇には、1014年(長和3年)2月と翌年9月に内裏が焼失するという不運が襲っていた。

 そして、道長との権力争いに疲れた三条天皇は、1016年(長和5年)、敦明親王を東宮(皇太子)とすることを条件に敦成親王(後一条天皇)に譲位。



兼綱は・・・

 三条天皇の譲位によって蔵人頭を止められてしまう。

 その理由は・・・

 986年(寛和2年)、兼綱の父道兼花山天皇を騙して出家させていることから(寛和の変)、道兼の一族を天皇に近づけないようにとの風評が立っていたためなのだとか。

 参考までに、1017年(寛仁元年)、敦明親王が東宮を辞退しているが、兼綱の兄兼隆が騙して辞退させたという風評も立っていたらしい。

  その後、兼綱は出世に恵まれず、公卿となることもできないまま、1029年(長元2年)、地方官に転じて越前守に。

 1058年(天喜6年)、紀伊守在任中に卒去。

 三条天皇が兼綱を蔵人頭にしたのは、皇后宮の藤原娍子の弟・通任を出世させるためだったといわれる。

 通任は、1011年(寛弘8年)に一条天皇が三条天皇に譲位したときに蔵人頭になったが、三条天皇は蔵人頭から外して出世させようと考えていたらしい。

 初めは兼綱ではなく、道長の三男・顕信を蔵人頭にしようとしたようだが。



資平は・・・

 三条天皇の退位後も後一条天皇の蔵人頭を務め、1017年(長和6年)には参議となり公卿となった。

 その後、大納言にまで昇り、1068年(治暦3年)薨去。

 三条天皇が資平を蔵人頭にした理由は・・・

 三条天皇は、道長と対立していたため、資平の父実資を頼ることが多かったことにあるらしい。

 資平の蔵人頭の叙任に道長は反対したようだが、三条天皇は強引に進めたのだとか。










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