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藤原顕信(ふじわらのあきのぶ)は、藤原道長の三男。 母は源明子(高松殿)。 994年(正暦5年)誕生。 1004年(寛弘元年)、同母兄の頼宗とともに元服。 翌年には侍従に任官して昇殿を許され、その後も順調に出世。 1011年(寛弘8年)10月には右馬頭に任ぜられたが・・・ 翌年正月、行願寺(革堂)の行円の許で剃髪し、比叡山の無動寺で出家してしまう。 何故、出家したのか? そこには、こんな経緯が・・・ 前年の12月19日、父の道長は三条天皇から顕信を蔵人頭に任じることを打診されるが、道長はこれを辞退。 その理由は・・・ 「見識不足(能力不足)の顕信が蔵人頭になれば多くの人から非難を受ける」 というものだったのだという。 父から「不足の者」と評価されてしまった顕信は、その失望感から出家したといわれている。 5月に比叡山の戒壇院で受戒。 戒師は道長と交流のあった慶命。 法名は長禅。 大原でも修行に励んでいたという長禅だが、1027年(万寿4年)5月14日、無動寺にて病死(享年34)。 |
藤原実資の『小右記』によると・・・ 顕信が出家する前年12月15日、顕信は藤原伊周の長男・道雅と同母兄の頼宗(道長次男)と北野の斎場で他人の悪口を言い合っていたのだという。 道長が三条天皇から顕信の蔵人頭任官を打診されたのは、それから4日後の事。 道長は顕信を「不足の者」として三条天皇の打診を断ったようだが・・・ 顕信は嫡子(正室の子)ではなく庶子。 道長としては、正室の子でない顕信を優遇する人事を避けたのかもしれない。 一方、道長との関係が順調ではなかった三条天皇は、庶子の顕信を出世させ、嫡子と庶子を対立を利用して自身の治世を築きたかったのかも。 |
皇后宮娍子の立后と中宮妍子の参内~三条天皇と藤原道長の対立~ 比叡山で投石され、重病になった藤原道長~顕信の受戒と山王権現の祟り~ |
顕信が剃髪した行願寺(革堂)は、1004年(寛弘元年)に一条天皇の勅願寺として創建された寺院。 開山は行円。 顕信は、行円の教えに感銘を受け出家することを決意したのだと伝えられている。 |
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