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一帝二后 |
1011年(寛弘8年)、一条天皇が譲位して三条天皇が誕生すると、1012年(寛弘9年)、藤原道長は入内させていた次女の妍子を中宮とした。 一方、道長と不和だった三条天皇は、妍子より先に入内して第一皇子の敦明親王を生んでいた娍子を皇后宮とする。 娍子は大納言で没した藤原済時の娘。 大納言の娘が立后されるというのは異例のことだったらしい。 |
決定的となった 三条天皇と道長の対立 |
一人の天皇に二人の皇后が存在する一帝二后という状況を作って道長に対抗した三条天皇。 一条天皇の時代に道長が作った定子と彰子の一帝二后を逆手にとったものだったが・・・ この事件は、絶大な権力を誇る道長と天皇の権威の回復を目指す三条天皇の権力闘争の象徴的な出来事となる。 4月27日、妍子の参内が行われ、その後、娍子の立后の儀が行われたが、道長は、 「同日は中宮妍子の参内の日である」 として出席せず、右大臣の藤原顕光と内大臣・藤原公季も、それぞれ病気と物忌を理由に欠席してしまう。 これを見た多くの公卿が道長に従って妍子の御所となっていた東三条殿に行ってしまったのだという。 道長の嫌がらせによって、娍子の儀式に参列したのは、娍子の弟・藤原通任と藤原実資・藤原隆家・藤原懐平の公卿のみだったのだとか。 ただ、『栄華物語』によると・・・ 大納言の娘は皇后宮になれないと諦めていた三条天皇に、道長は娍子の父藤原済時に太政大臣を追贈ことを提案したのだという。 実際に追贈されたのは右大臣だったが、道長の提案だったかどうかは不明。 |
※ | この年の正月、道長の三男顕信が突然出家しているが・・・ |
藤原顕信~突然出家した藤原道長の三男~ |
対立の末に・・・ |
その後、妍子は禎子内親王を出産するが、天皇親政を望む三条天皇と、早く長女・彰子が生んだ敦成親王を即位させたい道長の仲は修復されず・・・ 三条天皇が眼病を患うと、道長はしきりに譲位を迫り・・・ 内裏焼亡も重なって疲れ切った三条天皇は、1016年(長和5年)、娍子が生んだ敦明親王を東宮とすることを条件として、敦成親王に譲位している。 |
三条天皇の夜半の月と 道長の望月 |
三条天皇の歌~夜半の月・百人一首収録歌~ 望月の歌・この世をば・・・~藤原道長の栄華と紫式部の歌 |
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