|
1012年(寛弘9年)5月、比叡山では、正月に突然出家してしまった藤原道長の三男・顕信受戒が行われた。 受戒に参列するため道長は比叡山に登るのだが・・・ 騎馬で登ったため、比叡山の僧から石を投げつけられたのだという。 藤原実資の『小右記』によると・・・ 東坂(近江坂本)から山を登り始めた道長一行は、檀那院の辺りで投石され、そのうちの一つは皇太后彰子に仕える大江清通の腰に当たったらしい。 「殿下(道長)が参り登り給うぞ、何者の仕業だ!」 と叫ぶと、褁頭の法師が出てきて 「ここは檀那院ぞ、下馬の所ぞ・・・・」 と言って石を投げつけ、そのうちの一つが道長の馬前に落ちたのだとか。 この時、法師の一人を捕らえたが、道長は院源に処分を任せている。 その後間もなく、道長は重病となるが、比叡山を騎馬で登ったため山王権現(日吉大社)の祟りを受けたという噂が流れたのだという。 さらに、道長の弟道綱・藤原実資・藤原隆家ら五人が道長の重病を喜んでいたとういう噂も流れたらしい。 |
※ | 院源は良源や覚慶に師事した僧で、後に道長の法成寺の落慶供養の導師、道長の出家の戒師を勤めることとなる。 |
※ | 檀那院は良源に師事した覚運が住していた比叡山東塔の堂舎(現存しない)。 |
比叡山延暦寺は天台宗の総本山。 聖域を下馬をせずに登った道長は、僧たちから 「たとえ大臣や公卿であろうと引きずり下ろせ」 と言い放たれたのだという。 騎馬での登山について天台座主の覚慶は、 「道長一人だけが騎馬であるなら馬も人間に准ずるので問題ないが、それ以外の数十人が騎馬で登山するのはあり得ないこと。 石に当たった者は慎むべき」 と語ったのだという。 藤原実資はこの事件を『小右記』で「相府当時後代の大恥辱也」と批判している。 |
比叡山東塔の無動寺で出家した顕信は、戒壇院で受戒。 戒壇院では、986年(寛和2年)の寛和の変で出家させられた花山天皇の受戒も行われている。 |
日吉大社は平安京の鬼門の守護神、比叡山延暦寺の守護神として崇敬された社。 道長が日吉大社の祟りで重病となった際、病気平癒の祈祷を依頼された慶円は、道長が騎馬で比叡山を登って僧たちの反発を受けたことに抗議して、祈祷を断ったのだという。 慶円は藤原実資の母方の叔父ともいわれ、後に天台座主となっている。 |
大きい地図を見るには・・・右上のフルスクリーンをクリック。 |
|