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金閣寺の正式名称は「鹿苑寺」。 京都五山第二位の相国寺の境外塔頭。 金箔を貼った舎利殿が「金閣」と呼ばれることから、寺院全体を「金閣寺」と呼んでいる(参考:慈照寺銀閣)。 室町幕府三代将軍の足利義満が、1397年(応永4年)、西園寺公経の別荘「北山第」を譲り受け、邸宅として使用した山荘「北山殿」をその始まりとしている。 1408年(応永15年)の義満の死後、その遺言によって夢窓国師を開山に迎えて禅寺とし、義満の法号「鹿苑院殿」から鹿苑寺と名付けられた。 しかし、義満以後の将軍家は、その権威も衰退し、応仁の乱が起こると鹿苑寺もその戦火の被害に遭ったが、金閣・石不動堂・護摩堂などは焼失を免れた。 |
西園寺(藤原)公経は、鎌倉時代の公卿。源頼朝の姪全子を妻とし、頼朝が厚遇した池禅尼の子平頼盛の曾孫にあたる人物。 鎌倉幕府四代将軍となった藤原頼経は、東福寺を創建した九条道家と公経の娘倫子との間に生まれた子。 西園寺の家名は、現在の鹿苑寺のある場所に西園寺を建立したことによる。 |
足利義満は10歳で征夷大将軍となり、室町に「花の御所」を営んだ。1392年(明徳3年)には南北朝の合一を成し遂げ、室町幕府の権力を確立させた。 |
夢窓国師は、鹿苑寺が創建されるより前の1351年(観応2年/正平6年)に没しているが、勧請開山(名目上の開山)として迎えられている。 |
足利義満の時代の文化は、それまでの伝統的な公家文化と武家文化が融合したもので「北山文化」と呼ばれている。 鹿苑寺の舎利殿(金閣)はその北山文化を代表するもの。 |
舎利殿前の鏡湖池(きょうこち)を中心とした庭園は国の特別史跡であり特別名勝。 大小の島々や諸大名が献上した名石が配された室町時代を代表する池泉回遊式の庭園。 |
この2つが重複指定されているのは、小石川後楽園、浜離宮恩賜公園、銀閣寺、醍醐寺三宝院、平城京左京三条ニ坊宮跡、厳島、毛越寺、一乗谷朝倉氏庭園と金閣寺の9箇所のみ。 |
1678年(延宝6年)、後水尾天皇の寄進により再興された建物。 |
方丈の北側に植えられた松は、足利義満のお手植えと伝えられ、京都三松の一つ。 帆掛け船の形をしているというこの松は「陸舟(りくしゅう)の松」と呼ばれている。 |
西園寺公経の山荘「北山第」だった頃の遺構。 |
池の中島にある層塔は「白蛇塚」とよばれ西園寺家の鎮守だったと伝えられている。 |
後水尾上皇の臨幸の際に造られたという茶室。 「夕日に映える金閣が佳い」という意味から付けられた名だという。 |
鹿苑寺の境内で最も古い建物で、天正年間に宇喜多秀家が再建したと伝えられている。 本尊は弘法大師作と伝えられる石不動明王。 |
京都市北区金閣寺町1 市バス「金閣寺道」 |
祇園には金閣・銀閣に次ぐ銅閣が建てられた! |
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