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かたがたに 別るる身にも 似たるかな 明石の須磨も 己が浦浦 |
「明石と須磨とは畿外と畿内、弟と別々の地に流されていく自分たちと似ている・・・」 播磨国に流される藤原伊周の感慨を表した歌。 『拾遺集』に収録され、柿本人麻呂の歌とされている 「白浪は立てど衣に重ならず明石も須磨も己が浦々」 が『栄花物語』の伊周配流の場面で引用されたらしい。 996年(長徳2年)、花山法皇を襲撃した伊周は、大宰権帥に左遷(長徳の変)。 伊周とともに事件を起こした弟の隆家も出雲国へ左遷となった。 ただ、勅により伊周は播磨国に、隆家は但馬国に留まることが許されたのだという。 |
『栄花物語』によると・・・ 父の藤原道隆の死後、内大臣として権勢を奮っていた藤原伊周は、弟の隆家とともに花山法皇に矢を向けたことなどの理由から配流の宣旨を下される。 自邸から密かに脱出した伊周は、宇治陵の道隆の墓に参り、菅原道真を祀る北野天満宮を参拝。 その翌日、伊周は筑紫の太宰府に、隆家は出雲に流され、妹で一条天皇の中宮・定子は落飾。 配流途中の山崎で伊周が病気になったため、伊周は播磨、隆家は但馬に留まることが許されたらしい。 播磨に流された伊周は、母高階貴子の病気を聞いて密かに入京するが、捕らえれて大宰府に護送されている。 その後、妹の定子が敦康親王を出産したことの恩赦によって都へ帰り、亡き母の墓前に参っている。 |
『栄花物語』では、伊周は敦康親王誕生の恩赦で帰京できたことになっているが・・・ 伊周が帰京できたのは997年(長徳3年)のことで、敦康親王はまだ生まれていない。 藤原実資の『小右記』によると、伊周の召還は東三条院(藤原詮子)の病気による大赦によるもの。 『栄花物語』では、何故、敦康親王誕生と結び付けているのか? 『栄花物語』の作者は、紫式部と同じく藤原彰子に仕えた赤染衛門と言われ、『源氏物語』の影響を受けているといわれる。 『源氏物語』では、須磨・明石に蟄居していた光源氏は、兄の朱雀帝に皇子が誕生したことで赦され、帰京している。 『栄花物語』は、この場面を模倣しているらしい。 伊周は配流前に宇治陵の道隆の墓と北野天満宮に参っているが、『源氏物語』でも光源氏は父桐壺帝の陵に参っている。 参考までに、『小右記』では北野天満宮ではなく愛宕山、『日本紀略』によると春日大社に参っているらしい。 |
伊周の母高階貴子は、播磨国の明石に流された子を思う歌を詠んでいる。 |
高階貴子の歌~明石にいる息子・藤原伊周を思って詠んだ歌~ |
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