|
藤原実資の『小右記』によると・・・ 997年(長徳3年)4月16日、 藤原道長の土御門邸を退出した藤原公任と藤原斉信を乗せた牛車が近衛大路を通って花山院の前までやってきた時のこと。 武装した者たちに牛車を止められ、牛童(牛車に従う者)が捕らえられ、公任と斉信は飛礫(つぶて・小石)を投げつけられたのだという。 この日は賀茂祭で、下鴨神社・上賀茂神社へと向かう斎王(斎院)の行列があった日。 事件は夕刻に起こったらしい。 |
花山院は、986年(寛和2年)の寛和の変で出家した花山法皇が御所とした邸宅。 高貴な人の邸宅の門前は、牛車や馬から降りて通るという習慣があったのだというが・・・ |
翌17日は、斎王(斎院)が還御する日。 『大鏡』によると・・・ 花山法皇は気に入っている者を集めて、甘子(みかん)の数珠を付けて紫野へ。 一方、前日の花山法皇の濫行を公任と斉信から聞いていた道長は、下手人を捕らえるため検非違使を出動させていた。 そのことを藤原行成が花山天皇に知らせると・・・ 花山法皇の牛車に従っていた者たちは逃げ去ってしまい、残されたのは牛車を扱う者だけになってしまったのだとか。 その後、花山法皇は斎王還御の行列を見物するために並べてあった牛車の後ろを通って、人目につかないように帰って行ったらしい。 『小右記』によると・・・ 道長から花山法皇の濫行を奏上されていた一条天皇は、花山法皇に供奉している者を追捕するよう命じていたのだという。 しかし、逃げ去ってしまったので、検非違使らが花山院を取り囲み、下手人を引き出すよう威嚇。 左衛門尉(検非違使尉)の橘則光が交渉にあたり、花山法皇は夜になって下手人を差し出したらしい。 大いに面目を潰された花山法皇だが、実資は「たくさんの悪事の報い」と語っている。 参考までに、この事件が起こったのは、花山法皇が藤原伊周・隆家の兄弟に襲われた長徳の変の翌年。 |
※ | 花山法皇と藤原行成は従兄弟。 |
※ | 花山法皇と橘則光は乳母子。 |
賀茂祭(葵祭)は、賀茂神社(上賀茂神社と下鴨神社)の祭礼。 |
上賀茂神社 |
下鴨神社 |
賀茂祭の行列は、紫野の斎院を出発した斎王が一条大路を進んで下鴨神社に至り、その後、上賀茂神社と向かった。 上賀茂神社に一泊した斎王は、翌日、紫野の知足院や雲林院を通って還御。 『小右記』によると・・・ 花山法皇の濫行事件があった年、実資は斎王還御の行列を見物するため知足院のあたりに車を停め、道長も近くに車を停めていたのだという。 |
常徳寺 |
雲林院 |
常徳寺は知足院をはじまりとする寺。 源義経の母常盤御前が信仰した寺でもある。 現在の雲林院は、大徳寺の塔頭だが、かつては官寺として栄えた寺。 紫式部の『源氏物語』にも登場する。 |
清少納言は『枕草子』に、斎王が上賀茂神社から紫野の斎院に帰る行列は、本当に素晴らしいと記している。 花山法皇の濫行事件で、花山法皇との交渉にあたった検非違使の橘則光は清少納言の最初の夫。 |
大きい地図を見るには・・・右上のフルスクリーンをクリック。 |
|