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平安京一条大路は、平安京の北限を東西に走っていた大路。 北極大路とも呼ばれ、道幅は約30メートルあったのだという。 賀茂祭では、賀茂斎院を出発した斎王が一条大路を進んで下鴨神社に至り、その後、上賀茂神社へと向かった。 そのため、一条大路沿いには貴族の桟敷が設けられ、多くの車が集まってきた。 藤原道綱母は、賀茂祭見物の際、藤原時姫に連歌対決を挑んだ。 藤原道長は、桟敷の前を過ぎる選子内親王に二人の孫(のちの後一条天皇と後朱雀天皇)を抱えて見せたのだという。 紫式部の『源氏物語』〜葵の巻〜には、光源氏の正妻・葵の上と愛人の六条御息所の車争いが描かれている。 清少納言の父清原元輔は奉幣使として行列に加わるが落馬の逸話を残している。 藤原実資の『小右記』には祭場と記されている。 鎌倉幕府の政所別当の大江広元は、検非違使の職務として賀茂祭に供奉して一条大路を練り歩き・・・ 四代将軍の九条頼経は、上洛時に大江能行・中条家平・後藤基政・宇都宮頼業らが練り歩くのを見物している。 |
上賀茂神社 |
下鴨神社 |
賀茂祭は、上賀茂神社と下鴨神社の祭礼。 清少納言の『枕草子』には、臨時祭の還御の様子が描かれている。 |
賀茂斎院(紫野斎院)は、斎王が住まい所。 藤原道長が孫を見せた選子内親王は、歴代最長の期間を斎王であり続け、大斎院と称された。 |
京都市上京区一条通大宮東入下石橋南半町 |
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