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井伊直政は、1561年(永禄4年)、遠江国井伊谷で誕生。 幼名は虎松。 父の直親は、井伊家当主で従兄の直盛が桶狭間の戦いで討死すると、井伊家の当主となったが・・・ 虎松が誕生した翌年、松平元康(徳川家康)に内通したとして仕えていた今川氏真に誅殺されてしまう。 虎丸も直盛の娘・直虎とともに命を狙われたが、新野親矩の擁護により救われたのだという。 しかし、1568年(永禄11年)、甲斐国の武田信玄が駿河侵攻を開始すると、今川氏真は井伊家家老の小野道好に虎松を殺害して、井伊谷を掌握し、加勢するよう命ずる。 命の危険が迫った虎松と直虎は、井伊家の菩提寺・龍潭寺に身を寄せて難を逃れたが、虎松は出家し、殺生禁断の地である鳳来寺に預けられることに。 8歳から14歳までを鳳来寺で過ごした虎松は、僧侶から武将としての教養を学んだのだという。 1575年(天正3年)、徳川家康に仕えることとなった虎松は、名を万千代と改め、1582年(天正10年)には元服して直政と名乗る。 同年に起こった本能寺の変直後の伊賀越えでは勇ましい働きで家康を守り、1584年(天正12年)の小牧・長久手の戦いでは「井伊の赤備え」を率いて活躍。 徳川四天王の一人に数えられる武将となった。 |
徳川家康と築山殿と井伊直政〜築山殿は井伊の血を引くのか?〜 |
浜松秋葉神社は、「井伊の赤備え」発祥の地。 直政は 武田信玄の精鋭部隊「赤備え」を継承し、小牧・長久手の戦いでは「井伊の赤備え」の名を天下に轟かせた。 |
関ヶ原の戦い後、佐和山城に入った直政は、彦根城の築城を計画するが完成前に死去。 子の直継が引き継いで完成させたのだという。 以後、彦根城は江戸幕府譜代筆頭の井伊氏の居城となった。 |
愛知県新城市門谷字鳳来寺1 豊鉄バス (田口新城線)「鳳来寺」下車 Sバス湯谷温泉もっくる新城線「鳳来寺山頂」下車 |
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