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木ノ芽峠は、830年(天長7年)に掘削された古道。 敦賀から今庄へと通ずる。 996年(長徳2年)、越前国司となった父・藤原為時に同行して武生に下向する紫式部が越えたとされている道。 ただし、紫式部の通った道には諸説ある。 |
源平合戦時には平維盛や木曽義仲がこの峠を通り、源頼朝と不和となった源義経もここを越えて奥州平泉へ向かったのだという。 永平寺開山の道元や親鸞・蓮如などの僧侶も往来。 新田義貞が比叡山から越前へと下る際には多くが凍死者を出した。 江戸時代には、松尾芭蕉がここを通って敦賀に入り、幕末には武田耕雲斎をはじめとする天狗党(水戸浪士)一行が雪の木ノ芽峠を越えて敦賀に入っている。 |
鹿蒜神社は、996年(長徳2年)、木ノ芽峠を越えて武生へ向かう紫式部が参拝したという社。 |
「ふるさとに 帰る山路の それならば 心やゆくと ゆきも見てまし」 越前武生に下向した紫式部が「都へ早く都へ戻りたい」という思いから詠んだ歌。 蔵の辻に歌碑が建てられている。 「帰る山」は鹿蒜山(今庄の鹿蒜の山々)。 「鹿蒜」と「帰る」を懸けている。 木ノ芽峠一帯の山並みは鹿蒜山と称されていたのだという。 紫式部は帰京するときにも木ノ芽峠を越えたとされるが、その時に詠んだのが・・・ 「ましもなほ 遠方人の 声かはせ われ越しわぶる たにの呼坂」 |
紫式部の歌~ましもなを・・・帰京途中のする鹿蒜山で詠んだ歌~ |
鹿蒜山は、紫式部が姉君と呼んでいた筑紫の君との贈答歌にも登場する。 |
紫式部の歌~越前へ下る紫式部と筑紫の君との贈答歌~ |
紫式部公園は、紫式部が越前国に下向したことを記念して整備された公園で、平安朝式庭園が再現されている。 |
紫式部像 |
紫式部歌碑 |
紫式部公園には、十二単衣をまとった金色の紫式部像が置かれ、周辺には紫式部歌碑が建てられている。 |
大きい地図を見るには・・・右上のフルスクリーンをクリック。 |
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