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鹿蒜神社(かひるじんじゃ)は、旧南条郡鹿蒜村(現在の南越前町今庄)に鎮座する社。 698年(文武2年)の創建と伝わる古社。 祭神は、譽田別尊・伊弉諾尊・武甕槌命。 996年(長徳2年)、越前国司となった父の藤原為時とともに越前国府(武生)へ向かう紫式部が参拝したといわれる。 |
「ふるさとに 帰る山路の それならば 心やゆくと ゆきも見てまし」 越前武生に下向した紫式部が「都へ早く都へ戻りたい」という思いから詠んだ歌。 蔵の辻に歌碑が建てられている。 「帰る山」は鹿蒜山(今庄の鹿蒜の山々)。 「鹿蒜」と「帰る」を懸けている。 |
「行きめぐり たれも都に かへる山 いつはたと聞く ほどのはるけさ」 (誰もがいつかは都に帰るのでしょうが、それは「何時のこと」と聞きたくなるほど遠い先のことのように思える・・・) 「かへる山」(鹿蒜山)を「帰る」に、「いつはた」(五幡)という地名を「何時」に懸けている。 この歌は、越前国へ下向することとなった紫式部が筑紫の友人に贈った 「北へ行く 雁のつばさに ことづてよ 雲のうはがき かきたえずして」 に対しての返歌。 筑紫の友人とは、紫式部が姉君と呼んでいた筑紫の君。 |
紫式部の歌~越前へ下る紫式部と筑紫の君との贈答歌~ |
鹿蒜山を越える呼坂という険しい山道で難渋していると、たくさんの猿が出てきたので・・・ 「ましもなほ 遠方人の 声かはせ われ越しわぶる たにの呼坂」 (猿たちよ、お前らも遠く離れた人と声を呼びかわせ。乙女が遠く離れた恋人の名を呼んだという呼坂で) 「まし」は「猿」のことで「お前」という意味もあるらしい。 |
996年(長徳2年)、都の自邸を発った紫式部は、大津の打出浜から船出して湖西を渡り、三尾崎を経て塩津浜に上陸。 塩津浜からは塩津山(深坂峠)を越えて敦賀に入り、敦賀から木ノ芽峠を越えて越前国府のある武生へ向かったのだといわれている。 ただ、木ノ芽峠越えだったのか五幡越えだったのかは明らかではない。 敦賀から海路を使ったという説もある。 |
紫式部公園は、紫式部が越前国に下向したことを記念して整備された公園で、平安朝式庭園が再現されている。 |
紫式部像 |
紫式部歌碑 |
紫式部公園には、十二単衣をまとった金色の紫式部像が置かれ、周辺には紫式部歌碑が建てられている。 |
福井県南条郡南越前町南今庄40-3 JR南今庄駅から徒歩10分 |
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