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北畠顕家は、『神皇正統記』で知られる北畠親房の子。 「風林火山」の旗印を用いたことで知られている。 1335年(建武2年)、足利尊氏が中先代の乱を鎮圧し、後醍醐天皇から離反した頃、顕家は陸奥守として後醍醐天皇の皇子・義良親王を奉じ、東北地方を治めていた。 |
多賀城は、平安時代に陸奥国府や鎮守府が置かれた城柵。 1333年(元弘3年)、後醍醐天皇が建武の新政が開始されると陸奥将軍府が設けられ、北畠親房・顕家の父子が義良親王(後の後村上天皇)を奉じて多賀城に下った。 |
鎌倉幕府滅亡後の鎌倉は、足利義詮(尊氏の嫡子)が治め、足利直義(尊氏の弟)が成良親王を奉じて下向していた。 1335年(建武2年)7月、北条高時の遺児・北条時行が鎌倉奪還の反乱を起こすと、足利尊氏がこれを鎮圧。 このとき尊氏は後醍醐天皇を裏切る覚悟を決めたのだという。 12月、新田義貞を破って京に入った足利尊氏は、翌年1月、陸奥から尊氏を追ってきた北畠顕家に蹴散らされて九州に逃れるが・・・ 1336年(建武3年)6月には勢力を盛り返し、持明院統の光厳天皇を奉じて再び京に入って室町幕府を開いた(参考:文保の和談)。 これに対し、後醍醐天皇は吉野に南朝を興している。 |
如意輪寺 (吉野山) |
後醍醐天皇陵 (吉野山) |
如意輪寺は、後醍醐天皇が吉野に行宮を定めた際に勅願所とした寺。 |
1337年(建武4年)12月、吉野の後醍醐天皇の命を受けた北畠顕家は、義良親王を奉じ、京を奪還するため陸奥から再び西上。 12月23日、朝夷奈切通から鎌倉に侵入した顕家軍は、杉本城の斯波家長を破って鎌倉を攻略した(杉本城の戦い)。 このとき伊豆国から北条時行が、上野国から新田義興が合流したのだという。 鎌倉を守っていた尊氏の嫡男義詮は敗走し、安房に逃れた。 鎌倉を攻略した顕家は、翌年正月2日には鎌倉を発ち、幕府軍と戦いながら西上するが、5月22日、高師直の軍に敗れ討死(石津の戦い:21歳)。 この年、新田義貞も敗死している。 |
中先代の乱と足利尊氏と清水寺に奉納した願文 |
朝夷奈切通 |
杉本城址 |
朝夷奈切通は、北条泰時の時代に掘削された鎌倉と金沢(六浦)を結ぶ道。 杉本城は、杉本寺の観音堂後方にあった城。 三浦義明の長男杉本義宗によって築かれたとされ、六浦道を抑える要衝だった。 杉本寺の観音堂横の五輪塔群は、北畠顕家の鎌倉攻めによって戦死した者の供養塔といわれている。 |
日の丸御旗〜源義経・北畠顕家・武田信玄・徳川家康が掲げた旗〜 |
杉本城は、杉本義宗(三浦大介義明)の長男が築いた城で、杉本寺の上にあった。 |
鎌倉市二階堂903 0467(22)3463 鎌倉駅から金沢八景・大刀洗行・ハイランド循環バス 「杉本観音」下車 |
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