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杉本寺の本堂(観音堂)は、棟札に延宝6年(1678年)とある茅葺の建物で、県の文化財に指定されている。 内陣と外陣に分けられた中世密教本堂形式のもの。 内陣には本尊の「木造十一面観音立像」が安置されている(行基・慈覚・恵心作の三体:三尊同殿)。 坂東観音巡礼第一番 鎌倉観音巡礼第一番 |
内陣中央の十一面観音は、851年(仁寿元年)に杉本寺を訪れ、霊感にうたれた慈覚(円仁)が、海辺の木で彫刻したともの伝えられている(国重文)。 鎌倉時代。 像高168.2p。 慈覚は、伝教大師最澄の弟子となり、比叡山延暦寺の横川、浅草寺、中尊寺、毛越寺などを開き、天台座主第三祖となった高僧。 浅草寺観音堂の「お前立ちの本尊」も慈覚作と伝えられている。 |
内陣の中尊に向かって右の十一面観音は、花山天皇の発願によって 恵心僧都が彫ったものと伝えられ、藤原様式の名残が認められる作品。 985年(寛和元年)に熊野権現の教えによって杉本寺に納められたものだといわれている(国重文)。 鎌倉時代。 像高142.3p。 恵心僧都は、仏教書『往生要集』を書いた人物。 花山天皇(法皇)は西国三十三所中興の祖。 |
比叡山横川の恵心堂(恵心院)は、藤原兼家が建立。 ここで、元三大師として知られる良源の弟子で恵心僧都と呼ばれた源信が修行をして『往生要集』を著した。 源信は、紫式部の『源氏物語』の最後の十帖「宇治十帖」(手習の巻)に登場する横川の僧都のモデルとも言われる。 |
内陣の中尊に向かって左の十一面観音は、杉本寺開山の行基の作と伝えられ、三尊中最も古いもの(市文)。 平安時代。 像高154.2p。 参考までに・・・ 逗子の岩殿寺(坂東三十三所二番)の十一面観音も行基の作。 岩殿寺には花山法皇(天皇)が来山しているのだとか。 |
源頼朝は、この三尊を内陣に安置させて秘仏とし、内陣前に運慶作の十一面観音像を寄進したのだという。 その他、観音堂には、「地蔵菩薩立像」、「毘沙門天立像」、「十一面観音像」などの仏像が安置されている。 |
ある日、寺の本堂が火事に。 別当の浄台坊が本尊の観音さまを運び出すため本堂に入ろうとすると、背後から呼び止める声がした。 振り返って見ると、観音さまは自力で大杉のもとに避難していたのだとか・・・ この伝説から「杉の本の観音」と呼ばれるようになったのだという。 ただ、この時の火事を『吾妻鏡』は、 浄台坊は、燃え盛る火焔の中に飛び込んで無事に本尊を運び出した。 その時、法衣はわずかに焦げたが、体には火傷はなかったと伝えている。 |
杉本寺の観音さま(行基作)は、寺の前を馬に乗ったまま通ると必ず落馬するので「下馬観音」と呼ばれていたのだという。 建長寺の蘭渓道隆(大覚禅師)が祈願して収まったが、その際に、袈裟で観音さまを覆ったことから「覆面観音」とも呼ばれるようになったのだとか。 |
※ | 上段で紹介した御影のうち、行基作の観音像には袈裟がかけられている。 |
8月10日の縁日に参詣すると四万六千日お詣りしたのと同じご利益があるとされている。 杉本寺でも護摩供養や法要が営まれ、多くの参拝者で賑わう。 かつて、三浦半島の人たちは、 杉本観音、 長谷観音(長谷寺)、 田代観音(安養院)を巡った後、岩殿観音(岩殿寺)を巡って帰っていたのだとか。 |
坂東三十三箇所は、源頼朝の観音信仰と、源平の戦いで西国に赴いた武者たちが西国三十三箇所の霊場を観たことで、鎌倉時代初期の開設につながったのだといわれている。 |
観音信者だった源頼朝〜守り本尊は清水寺から授かった正(聖)観音像〜 観音浄土へ船出した下河辺行秀〜補陀洛渡海〜 坂東三十三観音〜神奈川県の札所〜 鎌倉観音巡礼 |
杉本寺は鎌倉最古の寺。 坂東観音巡礼・鎌倉観音巡礼の第一番札所。 裏山には、杉本義宗によって築かれた杉本城があった。 |
鎌倉市二階堂903 0467(22)3463 鎌倉駅から金沢八景・大刀洗行・ハイランド循環バス 「杉本観音」下車 |
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