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浅草寺の本堂
(観音堂)

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浅草寺本堂(観音堂)


 浅草寺の本堂(観音堂)は、絶対秘仏の本尊・聖観世音菩薩を奉安する堂宇。

 645年(大化元年)、勝海によって建立されたのがはじまりとされる。

 942年(天慶5年)、平公雅が平将門の乱で荒廃していた伽藍を再建した際、観世音菩薩が現われたという隅田川岸(現在の駒形堂)から現在地に移転。

 その後、倒壊や焼失を重ねたがその都度再建されてきた。

 1649年(慶安2年)に徳川家光の寄進によって仁王門五重塔とともに建立された本堂は、1945年(昭和20年)3月10日の空襲により焼失、当時の建物は国宝に指定されていた。

 現在の本堂は、1958年(昭和33年)に再建された鉄筋コンクリート造の建物で、旧本堂と同形態に建てられている。

 内陣中央の御宮殿(ごくうでん)には秘仏本尊の聖観音像、円仁(慈覚)作というお前立ちの本尊が奉安されている(本尊脇侍は、不動明王と愛染明王。)。

 御宮殿の左右には梵天・帝釈天が安置されている。

 12月13日の開扉法要のときに「お前立ちの本尊」が公開される。

 坂東三十三箇所観音霊場(第十三番)。



 坂東三十三箇所第一番・鎌倉の杉本寺本尊も円仁作と伝えらている。



浅草寺本堂(観音堂)


浅草寺本堂(観音堂)


浅草寺お水舎

 お水舎には高村光雲作の龍神像が安置され、天井には東韻光作の墨絵の龍が描かれている。









〜漁師の網にかかった御本尊〜

浅草寺観音伝説


 浅草寺の秘仏本尊の聖観音像は、628年(推古天皇36年)3月18日に、宮戸川(現在の隅田川)で漁をしていた檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)兄弟の網にかかって引き上げられたという像。

 郷司の土師中知(はじのなかとも)は、自邸を寺にして引き上げられた聖観音像を供養したと伝えられ、それが浅草寺のはじまりなのだという。

 本堂東側の浅草神社には、観音像を引き上げた兄弟2人と自邸を寺とした土師中知が祀られている。


浅草神社
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〜浅草寺を再建した平公雅〜

 平公雅(たいらのきんまさ)は、上総介として下向して武家平氏の祖となった高望王の孫(高望王流桓武平氏)。

 942年(天慶5年)、出世を願って浅草寺に参籠した公雅は、武蔵国守となれたことの礼として、平将門の乱で荒廃していた伽藍を再建。

 本堂・宝塔・鐘楼・総門楼門・経蔵・法華常行堂・五重塔が建立され、浅草寺は比類なき霊場となったのだという。





〜源頼朝の平家討滅祈願〜

 1180年(治承4年)8月17日、伊豆国挙兵した源頼朝

 8月24日、石橋山の戦いで大敗してしまうが、8月29日には安房国へと渡り、軍勢を整え、10月2日に三万騎を率いて太井川(現在の江戸川)・隅田川を渡って武蔵国に入った。

 その折、浅草寺を参拝し、平家討滅祈願を行ったのだと伝えられている。

 御神木のイチョウは、頼朝が挿した枝が根付いたものと伝えられている。



隅田川沿いの源頼朝伝説

源頼朝挙兵

源頼朝鎌倉入り


 武蔵国を進軍した頼朝軍は、10月6日には相模国に入り、翌7日に鎌倉入りしている。





〜源頼朝と坂東三十三観音〜

 観音信者だったことで知られる源頼朝

 1180年(治承4年)の挙兵のときには、髷に京都の清水寺から下された「正(聖)観音像」を納めていた。

 のちにその観音像は、持仏堂(法華堂)の本尊として祀られている(参考:持仏堂の建立)。

 湯河原町のしとどの窟には、頼朝の観音伝説が残されている。


しとどの窟
リンクボタンしとどの窟
(湯河原町)


 坂東三十三箇所は、頼朝の観音信仰と、源平の戦いで西国に赴いた武者たちが、西国三十三箇所の霊場を観たことで、鎌倉時代初期に開設につながったのだという。

 その後、観音巡礼は、西国三十三箇所、坂東三十三箇所に、秩父三十四箇所が加わり、百観音巡礼として発展した。








歴史めぐり源頼朝




浅草寺
リンクボタン浅草寺

 浅草寺は観音霊場として栄え、坂東三十三箇所の十三番札所となっている。
 観音信者だったという源頼朝も信仰し、平氏討滅祈願を行ったという。


東京都台東区浅草2丁目3番1号

東京メトロ銀座線・都営地下鉄浅草線・東武伊勢崎線(東武スカイツリーライン)「浅草駅」より徒歩5分





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