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浅草寺の山門は、942年(天慶5年)、平公雅(たいらのきんまさ)によって創建された。 その後、度重なる火災により焼失するが、その都度再建されてきた。 1648年(慶安元年)には、徳川家光の寄進によって本堂、五重塔とともに再建されたが、1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲により、本堂、五重塔、経蔵とともに焼失。 現在の山門は、1964年(昭和39年)に再建された鉄筋コンクリート造で、経蔵を兼ねた建物。 かつては、仁王像(金剛力士像)を安置していることから「仁王門」と呼ばれていたが、再建後は、内部に収蔵室が設けられ、浅草寺の什宝物を収蔵していることから「宝蔵門」と呼ばれている。 |
平公雅(たいらのきんまさ)は、上総介として下向して武家平氏の祖となった高望王の孫(高望王流桓武平氏)。 942年(天慶5年)、出世を願って浅草寺に参籠した公雅は、武蔵国守となれたことの礼として、平将門の乱で荒廃していた伽藍を再建。 本堂・宝塔・鐘楼・総門・楼門・経蔵・法華常行堂・五重塔が建立され、浅草寺は比類なき霊場となったのだという。 |
阿形像 |
吽形像 |
阿形像のモデルは力士の北の湖、吽形像のモデルは明武谷だという。 |
「浅草寺」の額は、1692年(元禄5年)に掲げられたもので、京都の曼殊院門跡良尚法親王の染筆。 |
門の背後に吊り下げられている巨大わらじは、魔除けのためのもので、吽形像を製作した村岡久作の出身地山形県村山市の奉賛会により、1940年(昭和16年)から奉納されているもの。 高さ4.5メートル、幅1.5メートル、重さ500kg。 |
宝蔵門に所蔵されている「元版一切経」(げんぱんいっさいきょう)全5428巻は、北条政子が伊豆修禅寺で悲運の最期を遂げた長男頼家の追善供養のため、中国から取り寄せて鶴岡八幡宮に奉納したもので、各巻には「鶴岳八幡宮」の朱印があるのだという。 |
※ | 「元版一切経」とは、中国元の時代に伝わった一切経という意味。 |
源頼家の墓 (修禅寺) |
指月殿 (修禅寺) |
源頼家は、1203年(建仁3年)に修禅寺に幽閉され、翌年、北条氏によって暗殺された。 頼家墓の横にある指月殿は、頼家の冥福を祈るために、母の北条政子が建てたのだという。 |
鶴岡八幡宮の輪蔵(経蔵)に収められていたという「元版一切経」 は、明治に入って神仏分離令が発せられると焼却される運命にあったが、1871年(明治4年)、浅草観音に帰依していた貞運尼が托鉢で得た資金で買い取った。 180箱に収められた一切経は、鎌倉から船で品川まで運ばれ、品川からは大八車で浅草寺に運ばれた。 この運搬を助力したのが町火消の新門辰五郎。 辰五郎は、安政年間(1854〜60)に経蔵を寄進したが、一切経がない状態だったのだという。 1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲で経蔵は焼失してしまうが、「元版一切経」は疎開していたため無事だった。 鶴岡八幡宮の輪蔵(経蔵)に安置されていた四天王像も浅草寺に移されたが空襲で焼失している。 |
鶴岡八幡宮の輪蔵(経蔵)から移された四天王像のうち二天は、二天門に安置されていた。 |
浅草寺は観音霊場として栄え、坂東三十三箇所の十三番札所となっている。 観音信者だったという源頼朝も信仰し、平氏討滅祈願を行ったという。 |
東京都台東区浅草2丁目3番1号 東京メトロ銀座線・都営地下鉄浅草線・東武伊勢崎線(東武スカイツリーライン)「浅草駅」より徒歩5分 |
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