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アテルイ・モレの碑は、蝦夷(えみし)の首長阿弖流為(アテルイ)と母禮(モレ)の名が刻まれた石碑。 801年(延暦20年)に行われた征夷大将軍坂上田村麻呂の蝦夷討伐で、勇敢に戦ったアテルイとモレ。 しかし、翌802年(延暦21年)、田村麻呂が陸奥国に胆沢城を築くと、郷土の犠牲に心を痛め、田村麻呂の軍門に下った。 田村麻呂は、二人を連れて京へ戻り、朝廷に二人の助命を願ったが許されず、二人は河内国で処刑されたのだと伝えられている。 石碑は、平安建都1200年を期して、1994年(平成6年)に有志により建立されたもの。 「北天の雄 阿弖流爲 母禮之碑」と刻まれている。 |
奥州平泉にある達谷窟毘沙門堂は、蝦夷討伐の際に坂上田村麻呂が建てたという堂。 ここに残されているのが賊徒・悪路王の伝説。 悪路王と阿弖流為(アテルイ)は、同一人物だとする説もある。 参考までに、達谷窟毘沙門堂は清水寺の舞台を模して建てられたのだという。 |
鎌倉の巽神社は、蝦夷討伐に向かう途中の坂上田村麻呂が勧請したのが始まりとされている。 |
清水の舞台で知られる清水寺。西国観音霊場の第十六番札所。 源頼朝は、三歳のときに清水寺から下された二寸銀の聖観音像を守り本尊とし、1180年(治承4年)の挙兵の際には、髷の中に納めていたという(参考:鎌倉・源頼朝墓)。 |
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