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「清水の舞台」として知られている清水寺の本堂。 現在の建物は、徳川家光の寄進により1633年(寛永10年)に再建されたもので国宝。 正面36メートル強、側面約30メートル、棟高28メートルの大堂。 堂内は、外陣(礼堂)と内陣、内々陣の三つに分かれ、外陣とその外側に廻らされた廊下を進んで拝観する。 内々陣には、三基の厨子が置かれ、中央の厨子には本尊の千手観音立像、向かって右側の厨子には毘沙門天立像、左側の厨子には地蔵菩薩立像が安置され、いずれも秘仏とされている。 本尊厨子の左右には千手観音の眷属である二十八部衆像が安置され、内々陣左右端には風神・雷神像が安置されている。 |
西国三十三所観音霊場第十六番札所。 洛陽三十三所観音霊場第十三番札所。 |
※ | 清水寺の本堂は2017〜2020年までの3年間、50年に1度の檜皮屋根葺き替え工事が行われ、2020年2月に完了しています。 |
「平成の大改修」で本堂工事にかけられた木の足場。 |
本尊の十一面千手観音立像は33年に一度開帳される秘仏。 42本の手のうち、左右各1本を頭上に伸ばして組み合わせ、化仏(けぶつ)を捧げ持つ独特のもので「清水型千手観音」と呼ばれている。 脇侍は、毘沙門天像と地蔵菩薩像。 この二体も秘仏。 地蔵菩薩像は、鎧で武装した上に袈裟を着け、兜をかぶり、剣を持つ特殊な像で「勝軍地蔵菩薩」と呼ばれている。 西国三十三所第十六番 「松風や音羽の滝の清水をむすぶ心はすずしかるらん」 御詠歌は、西国三十三所中興の祖といわれる花山法皇が巡礼の際に木の短冊にしたためた和歌なのだという。 |
本尊の千手観音、脇侍の地蔵菩薩・毘沙門天は秘仏のため、拝観することはできない。 そのため、御正体の懸仏を拝観することによって、三尊像を透視する。 懸仏は、檜板に銅板を張り半肉彫りの観音像が取り付けられているもので、直径2メートル、重さ400キログラムという大きなもの。 |
平安時代には、貴族による観音信仰が高まり、藤原道長をはじめ、宮中に仕えた紫式部・清少納言などの女流文学者が盛んに観音霊場を参詣した。 |
清水詣・石山詣・初瀬詣〜平安貴族が信仰した清水寺・石山寺・長谷寺〜 |
大錫杖(90s以上) 小錫杖(14s) 高下駄(12s) |
明治中期に奈良県・吉野で修行した修験者から奉納されたもの。 あまりの重さに「弁慶の錫杖と高下駄」とも呼ばれている。 |
本堂の窓の下に続いている深い筋状の傷は 「弁慶の爪痕」と呼ばれているもの。 これは、昔、お百度やお千度詣りをする際についた、数取の串や樒(しきみ)の擦り傷。 夜中に手探りでお参りをした、数えきれない人々の信心の証。 |
『義経記』によれば・・・ 1176年(安元2年)6月、五條天神社で源義経と出会った弁慶。 1000本目の太刀を奪いたい弁慶は義経に襲いかかるが、離れ業で弁慶の太刀をかわす義経。 その夜は決着がつかなかった。 翌日は清水寺の祭礼。 門前で義経を見つけた弁慶は、薙刀で襲いかかるが、またしても軽くあしらわれてしまい、清水の舞台で勝負することに。 しかし、弁慶は義経に負けて主従の契りを結んだのだとか・・・ |
清水寺の舞台は、本尊の観世音菩薩に芸能を奉納する場所。 古くから雅楽、能・狂言、歌舞伎、相撲などの芸能が奉納されてきた。現在でも舞台奉納が行われいる。 舞台は、錦雲渓(きんうんけい)の急な斜面にせり出すように建てられ、139本ともいわれる巨大な欅の柱が使用されている(最長12メートル)。 「懸造」(かけづくり・舞台造ともいう。)と呼ばれる建築方法で釘は一本も使用されていない。 舞台の高さは四階建てのビルに相当し、面積は190平方メートルで、400枚を超える檜板が敷き詰められている。 |
平安時代、清水寺の周辺は鳥辺野と呼ばれた葬送の地。 鳥辺野は、六波羅蜜寺・六道珍皇寺・西福寺が建ち並ぶ六道の辻が入口とされ、清水寺の南の阿弥陀ヶ峰の山麓付近が中心で、今熊野神社や今熊野観音寺にかけての広い地域だったらしい。 そして、清水の舞台は、庶民の死体の投げ捨て場だったのだといわれる。 |
思い切って決心することを 「清水の舞台から飛び降りたつもりで・・・」 というが、清水の舞台はその語源となった。 記録によると、1694年(元禄7年)〜1864年(元治元年)の148年の間に、234件もの飛び降り事件が発生しているのだという。 これは、助かれば願いが叶い、死んでも成仏できるという信仰から起こったこと。 1872年(明治5年)には、政府によって飛び降り禁止令が出されている。 |
天台宗の僧で徳川家康・秀忠・家光の側近だった天海は、江戸鎮護のために寛永寺を創建。 寛永寺には、比叡山や京都の有名寺院になぞらえた堂舎が次々と建立され、清水寺を模した清水観音堂も建てられた。 |
源頼朝は、三歳のときに清水寺から下された二寸銀の聖観音像を守り本尊とし、1180年(治承4年)の挙兵の際には、髷の中に納めていたという(参考:鎌倉・源頼朝墓)。 |
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