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渡殿の紫式部の局の戸をたたく藤原道長 『紫式部日記絵巻』 |
『紫式部日記』によると・・・ 夜中に紫式部の局の戸を叩く人が者がいたが、怖くて無視したところ、 翌朝、藤原道長から・・・ 夜もすがら くひなよりけに なくなくぞ 真木の戸口に たたきわびつる (一晩中、水鶏の鳴き声以上に泣く泣く戸をたたいたのに・・・) という歌が贈られてきた。 それに対して、紫式部は、 ただならじ とばかりたたく 水鶏ゆゑ あけてはいかにくやしからまし (考えがあって戸を開けようとする水鶏に折れて戸を開けてしまっては、どんなに残念な思いをしたことでしょう) と返したのだとか。 「渡殿に寝た夜の事」は、1008年(寛弘5年)、土御門邸での出来事。 参考までに・・・ 1008年(寛弘5年)4月13日、一条天皇の中宮・藤原彰子は、安産祈願の法華三十講のため土御門邸に里下がりし、 7月16日には、お産のため里下がりしている。 |
紫式部が藤原道長を拒絶したらしいこの場面から、『源氏物語』の登場人物で光源氏を失恋させた空蝉は、紫式部自身がモデルなのかもしれないという説がある。 ただ、1008年(寛弘5年)11月には、中宮・藤原彰子が草子作りを始めているので、時期的にどうなのだろうか? 「草子」は『源氏物語』のことで、彰子は一条天皇に献上しようとしていたらしい。 とすると・・・ 夫の藤原宣孝を亡くした後、家の門を叩く男を無視したときの体験が空蝉の物語を書かせたのかもしれない。 |
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![]() 紫式部の歌~源氏物語について交わした藤原道長との贈答歌~ |
土御門殿(土御門邸)は、藤原道長の邸宅。 1008年(寛弘5年)9月11日、紫式部が仕えていた藤原彰子は土御門殿で一条天皇の第二皇子・敦成親王(後一条天皇)を出産。 翌年11月25日には、第三皇子の敦良親王(後朱雀天皇)を出産している。 紫式部は、寝殿と東の対の屋を結ぶ渡殿の東側の戸口近くに部屋を与えられていたらしい。 |
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越前武生を流れる河濯川に架かる七つの橋のレリーフ。 |
越前市東千福町20 武生駅から白山行き福鉄バス 「紫式部公園口」下車 市民バス市街地循環南ルート 「紫式部公園」下車 |
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