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平清盛は、伊勢平氏の棟梁平忠盛の嫡子。 1156年(保元元年)の保元の乱で、源義朝とともに戦い勝利をおさめて栄達の基礎をつくりあげ、1159年(平治元年)の平治の乱で義朝を破って武家政権樹立の基礎を築きあげた。 その後、昇進を続けた清盛は、武士としてははじめてとなる太政大臣にまで昇り、「平氏にあらずんば人にあらず」とまで言わせ、一門による独裁政権を実現した。 しかし、後白河法皇と対立、次第に反平氏勢力が大きくなる中の1181年(治承5年)閏2月4日、九条河原の平盛国邸(清盛の側近)で亡くなった(享年64歳)。 この前年には、平治の乱で伊豆国の蛭ヶ小島へ流した源頼朝が挙兵している。 |
平重衡の南都焼討 平清盛の死 |
古くから白河法皇の落胤とする説があって、『平家物語』によれば、白河法皇の寵愛をうけた祇園女御が産んだ子であるという。 一方、近年では、祇園女御の妹が産んだ子だともいわれている。 京都御苑にある厳島神社は、清盛が母・祇園女御のために建てたものだという。 |
亡くなる前年、都を福原(現在の神戸市)に遷した清盛。 福原には清盛の廟所と供養塔が建っている。 |
能福寺には平清盛の廟所が復興されている。 |
清盛塚は、清盛の供養塔。 |
六波羅蜜寺は、空也上人によって開かれた西光寺を前身としている寺。 平安時代後期には、平清盛をはじめとする平家一門の屋敷が建ち並んでいた。 |
京都市東山区松原通大和大路東入2丁目轆轤町 京阪「清水五条駅」から徒歩5分 JR京都駅から市内循環バス「清水道」下車徒歩5分。 |
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