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1213年(建暦3年)5月2日、北条義時を討つために挙兵した和田義盛。 この挙兵は計画どおりだったのだろうか? |
〜挙兵は5月3日のはずだった〜 |
『吾妻鏡』によると、挙兵前の3月19日、義盛邸には横山時兼が訪れている。 おそらく、打倒義時についての話し合いがなされたのかと・・・ 時兼は、武蔵国多摩郡横山荘の武将(横山党の総帥)。 叔母が義盛の妻で、妹が義盛の嫡男常盛の妻だったのだという。 その時兼が義盛の応援に駆けつけたのは、5月3日の明け方だった。 時兼の行動からすると、当初の計画では、5月3日を挙兵の日として打ち合わせがされていたものと考えられる。 |
八幡八雲神社は横山氏の館跡に鎮座。 |
〜三浦義村の裏切り〜 |
では何故、5月2日に挙兵したのか? 三浦義村の裏切りがあったからと考えられる。 『吾妻鏡』によると、義村は起請文まで書いて義盛に味方すると約束していたが、直前になって裏切った。 「先祖の三浦為継は、八幡太郎義家に従い、奥州で武衡・家衡を征伐して以降、源氏から恩禄を賜ってきた。 一族の義盛に味方して、先祖代々の主君に矢を射れば天罰を免れることはできない」 という理由からなのだというが・・・ 義村は、三浦宗家でもない一族の義盛が侍所の別当として勢力を誇っていることに不満を抱いていたと考えられている。 慈円の『愚管抄』は、義盛を「三浦の長者」と伝えていることから、京都では三浦一族の長は義盛とみられていたとも言われる。 こうしたことから、義盛を邪魔に思っていた義時と義村は利害が一致していたと言えるのかもしれない。 そして、義村は当初から義時に内通していたのかもしれない。 |
※ | 義村の裏切りの理由からすると、義盛は実朝に弓を向けるような感じだが、義盛の標的は義時。 |
〜義村の裏切りを知った義盛は〜 |
義時を討つためには「将軍源実朝を擁して戦うこと」。 そのためには、警護が手薄のうちに御所を襲撃して実朝の身柄を確保しようと考えたのかもしれない。 しかし、それは叶わなかった。 参考までに・・・ 『吾妻鏡』によると、義盛が御所を襲撃すると、実朝は北御門から頼朝の法華堂に避難したのだという。 義盛の当初の計画では、義村が北御門を固めることになっていた。 したがって、義村の裏切りがなければ、実朝の身柄を確保できた可能性が高かったということ・・・。 |
泉親衡の乱から和田義盛の挙兵まで〜和田合戦『吾妻鏡』〜 『吾妻鏡』が伝える和田合戦 |
由比ヶ浜にある和田塚は、和田合戦の戦死者を葬った所と伝えられている。 |
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