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『吾妻鏡』によると、1224年(元仁元年)12月26日、三代執権北条泰時は、鎌倉に疫病が流行したことから、六浦、小坪、稲村、山内の四境(鎌倉の境界(外側))で「四角四境祭」を執行させた。 「四角四境祭」とは、陰陽道に基づく除災の儀式。 1235年(嘉禎元年)、四代将軍藤原(九条)頼経が疱瘡にかかった際には、巨福呂坂・小坪・六浦・片瀬を四境とする「四角四境祭」が行われているが、この時の「巨福呂坂」と1224年(元仁元年)の時の「山内」は同じ場所と考えられるという。 |
※ | JR北鎌倉駅横のトンネル(北鎌倉隧道)が掘られている岩塊は、平安時代後期より鎌倉の北の境界だったという。 |
※ | 平成27年4月28日より、北鎌倉隧道は通行できなくなりました。 |
四角四境祭の山内の斎場は八雲神社だったと伝えられている。 |
『北条九代記』によると、1224年(元仁元年)の四角四境祭は、陰陽師の意見で京都の今宮神社にならって行われた。 北条泰時の鬼気の祭 (1224年(元仁元年)の四角四境祭) |
『吾妻鏡』によると、寛喜の飢饉で疫病が流行した1231年(寛喜3年)5月4日、四代将軍藤原(九条)頼経の父道家から、ある僧が祇園さま(八坂神社)のお告げを受けて書いたという札が鎌倉に送られ、御所ではその夜に四角四境の鬼気祭を行っている。 |
北条泰時と北条時頼の邸跡から出土した木札(呪符)。 京都の祇園祭で授与される粽(ちまき)と同じように、北条氏も悪魔払いの「おまじない」をしていた・・・。 |
1180年(治承4年)、北条政子が鎌倉に入る際に稲瀬川付近の民家に滞在していること。 1184年(元暦元年)、平家追討に向かう源範頼を源頼朝は稲瀬川の桟敷から見送っていること。 1185年(文治元年)、後白河法皇から送られてきた源義朝の髑髏を持った使者を源頼朝は稲瀬川まで出迎えていること。 などから、当時の鎌倉の西の境が稲瀬川だったと考えることができる。 |
1224年(元仁元年)、北条泰時が行わせた「四角四境祭」では、西の境は稲村ヶ崎となり、1235年(嘉禎元年)の「四角四境祭」の際には、稲村ヶ崎から片瀬にまで拡がったものと考えられる。 |
巨福呂坂 小坪路 朝夷奈切通 龍口刑場跡 |
八雲神社のある山ノ内は、陰陽師安倍晴明の伝説が多く残されている地。 |
1180年(治承4年)、鎌倉入りをした源頼朝の当座の御所は、安倍晴明の護符が貼られた屋敷を移築したものだった。 |
八雲神社の晴明石は、火難・災難よけの神の石といわれている。 |
晴明神社は、一条天皇が晴明の偉業を讃え、晴明の屋敷跡に建立した社。 |
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