|
辻の薬師堂は、小町大路の本興寺門前にある小さなお堂。 廃寺となった真言宗医王山長善寺の薬師堂だった。 長善寺は、奈良時代の神亀年間(724年−729年)に染屋時忠が「鷲にさらわれた娘の遺品」が見つかった名越に建立した寺院で、のちに現在の地に移された。 江戸時代には徳川光圀も訪れたのだという。 堂内にあった「木造薬師三尊及十二神将立像」は鎌倉国宝館に寄託され、現在置かれている薬師三尊及び十二神将立像2躯はそのレプリカ。 |
染屋時忠は、藤原鎌足の四代目の子孫で、関東諸国の総司令官。 鎌倉最古の甘縄神明神社を建立したされ、東大寺・石山寺・大山寺を開いた良弁の父ともいわれる。 |
染屋時忠の娘に関する伝説は、来迎寺(如意輪観音)・魔の淵のお地蔵さま・妙法寺(鷲の宮)・六国見山(稚児墓)・多聞院(岡野観音)・塔ノ辻にも残されている。 |
辻の薬師堂に伝わる薬師如来立像(県重文)は平安時代のもの。 行基作とも伝えられ、廃寺となった医王山東光寺(現鎌倉宮)の本尊だったとされている(脇侍像は江戸時代のもの)。 『吾妻鏡』によると、1209年(承元3年)10月10日、二階堂行光が永福寺の近くに一伽藍を建立。 園城寺の公胤が導師を勤め、北条政子・北条義時・大江広元・三善康信らが出席して供養が行われた。 この寺院が東光寺だという説があるが、源頼朝の創建という説もあり、創建に関することは不明。 1334年(建武元年)11月15日、東光寺には足利尊氏と対立した護良親王が幽閉され、翌年7月23日に護良親王が暗殺された(参考:護良親王の墓)。 その後、東光寺は関東十刹の一つに数えられたが廃寺となり、薬師如来は染屋時忠建立の長善寺に移されたのだという。 十二神将立像(県重文)は覚園寺像の原型と考えられ、鎌倉の十二神将では最も古い(8躯が鎌倉時代のもので、4躯が江戸時代のもの)。 鎌倉国宝館で修復された「薬師三尊及十二神将立像」を拝観することができる。 |
かつて、大倉薬師堂(現在の覚園寺)にあった戌神像は、北条義時の危機を救ったのだと伝えられ、その霊験にあやかろうと多くの像が造られたのだといわれている。 辻の薬師堂の戌神像は、大倉薬師堂の戌神像(運慶作)の模刻と考えられている。 |
2021年(令和3年)、前年に発見された「承久記絵巻」の特別展が開催され、辻の薬師堂の戌神将も展示された。 |
東光禅寺は、鎌倉にあった医王山東光寺を前身としているのだという。 寺伝では、畠山重忠の創建とされている。 |
鎌倉市大町2丁目 (本興寺の前) 鎌倉駅東口から徒歩15分 |
大きい地図を見るには・・・ 右上のフルスクリーンをクリック。 |
|