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鎌倉幕府滅亡後の1333年(元弘3年)12月14日、足利直義が関東を統治するため、後醍醐天皇の皇子成良親王を奉じて鎌倉に入った。 直義は、足利尊氏の弟。 鎌倉には尊氏の嫡子千手王(のちの二代将軍義詮)がとどまっていましたが、以後、直義に支えられながら、のちの鎌倉府の基礎を築いていくことになる。 |
浄光明寺は、成良親王の祈願所だった。 |
1334年(建武元年)11月15日、京都では尊氏と後醍醐天皇の皇子護良親王が対立し、護良親王は捕らえられ、鎌倉へ流された。 直義に身柄を預けられた護良親王は、二階堂薬師堂ヶ谷の東光寺(現在の鎌倉宮付近)に幽閉される。 |
鎌倉宮には護良親王が幽閉されていたという土牢が残されている。 |
1335年(建武2年)、北条高時の遺児時行が諏訪頼重に担がれて挙兵(中先代の乱)。 各地で足利軍を撃破し、7月22日、直義も出陣したが敗れ、成良親王と義詮とともに鎌倉を逃れた。 その際、直義は東光寺に幽閉していた護良親王を淵辺義博に命じて殺害。 時行は、7月25日に鎌倉に入った。 |
浄光明寺の矢拾地蔵は、合戦で直義を救ったという伝説の地蔵尊。 |
鎌倉を逃れた直義は、8月2日、成良親王・義詮とともに三河国矢作宿に到着。 ここで成良親王を京都へ返している。 その間、京都では、時行が反乱を起こしたとの報告を受けた尊氏が、時行討伐の許可を後醍醐天皇に求め、「総追捕使」と「征夷大将軍」の官職を要求していた。 この2つの官職は、源頼朝も賜った官職で、総追補使は一定の地域を一定の権限で支配でき、征夷大将軍は、頼朝以来、武家の棟梁であることを象徴する官職となっていた。 尊氏の行動は、「武家政権の樹立」を考えてのものといえる。 しかし、後醍醐天皇は尊氏の要求を退け、8月1日、成良親王を征夷大将軍に任命。 一方、尊氏は、8月2日、後醍醐天皇の許可を得ずに兵を率いて東下。 これを聞いた後醍醐天皇は、尊氏を征東将軍に任命して、その行動を追認したのだという。 東下した尊氏は、三河国で直義と合流し、8月19日には鎌倉を奪還。 時行は逃亡したが、時行を担ぎ上げた諏訪頼重は、勝長寿院で自害したのだと伝えられている。 |
後醍醐天皇は、尊氏が「鎌倉を奪還した」という報が届くと、勅使を送って「すみやかな上洛」を命じ、武士への恩賞も「天皇自らが行う」ことを伝えた。 尊氏は勅命に従うつもりでいたようだが、それをとめたのが直義だったのだという。 「後醍醐天皇と新田義貞の陰謀から逃れて、運良く関東に下ることができたのに、ふたたび適中に身を差し出す必要はない」 というのが理由だった。 そして、若宮大路の旧鎌倉将軍邸跡に新亭を構えた。 これは、後醍醐天皇に反旗を翻したことを行動をもって示したものともいえる。 しかし・・・ 後醍醐天皇が尊氏追討令を出し、新田義貞を総大将とする追討軍が東下してくると、尊氏は浄光明寺に蟄居。 三河国矢作川が破られても起たず、直義がその救援に出陣したが、直義も敗北。 その危機の報を聞いた尊氏は、 「直義が命を落とすことがあれば、自分が生きているのも無益なこと」 として出陣を決意。 「ただし、天皇に弓を引く考えは毛頭ない」 と考えていたのだという。 |
その後、新田軍を破った尊氏は、翌年正月には上洛。 一時京都を追われたが、6月14日には、持明院統の光厳上皇を奉じて入京。 そして、11月7日には「建武式目」を制定して室町幕府を成立させた。 1338年(延元3年・暦応元年)には、尊氏は征夷大将軍、直義は左兵衛督に任じられ、「両将軍」と称された。 |
室町幕府の成立によって、後醍醐天皇の建武の新政は崩壊。 幽閉されていた花山院を脱出した後醍醐天皇は、密に吉野へ行幸。 自ら主宰する朝廷を開いたことにより、京都朝廷(北朝)と吉野朝廷(南朝)が並立する南北朝時代が始まった。 |
劣勢を覆したい後醍醐天皇だったが、望みは叶わず、1339年(延元4年 / 暦応2年)8月16日、還御することなく崩御(宝算52)。 陵墓は塔尾陵(吉野山:如意輪寺)。 |
1348年(正平3年・貞和4年)頃から、軍事を任せれていた高師直と政務を任せれていた直義の対立が激化、観応の擾乱へと発展。 最終的には、尊氏と直義の直接対決となり、直義は敗れ、1352年(正平7年・文和元年)正月5日、鎌倉で尊氏と直義の和睦が成立。 しかし、それから間のない2月26日、直義は鎌倉の延福寺で急逝。 尊氏が毒殺したのではないかとも説もある。 |
鎌倉浄明寺の鎮守熊野神社付近に、直義の屋敷があったとされ、直義の菩提所として建てられた大休寺があったのだという。 |
延福寺は、尊氏と直義の異母兄高義が、母契忍禅尼の供養のために建てた寺と伝えられている。 |
浄妙寺は、尊氏と直義の先祖足利義兼が創建した極楽寺を前身としている。 |
1336年(建武3年)8月27日、尊氏は自筆の願文を清水寺に奉納している。 願文には、 「この世は夢の如くに候」で始まるもので、内容は、「自分に仏の加護を賜り、後生の安寧を願うとともに、現生での果報は弟の直義に与えていただきたい」 と書かれていたのだという。 |
中先代の乱と足利尊氏と清水寺に奉納した願文 |
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