|
1582年(天正10年)5月29日、織田信長は、羽柴(豊臣)秀吉の援軍のため僅かな供回りを連れて本能寺に入り、軍勢の集結を待った。 嫡男の信忠は妙覚寺に入っている。 6月1日、信長は本能寺で茶会を催した。 その日の夕刻、明智光秀は丹波亀山を出陣。 そして、翌2日早朝、本能寺の信長を襲撃した(本能寺の変)。 信長は、この光秀の謀反によって、本能寺に火をかけ自刃したと伝えられている。 嫡男の信忠は二条殿(二条御所)で自刃。 本能寺の信長公廟は、三男信孝の命によって建てられたのだという。 |
信長の最後の言葉という「是非に及ばず」。 一般的に、本能寺からの脱出は不能と判断し、「仕方がない」という諦めの意味で発した言葉だとされているが・・・ 実は、「是か非かはどうでもよい。戦え!」という命令だったという説も。 |
是非に及ばず〜織田信長最後の命令・本能寺の変〜 |
織田信長の死後100日目にあたる10月10日、羽柴秀吉は大徳寺で盛大な葬儀を執り行った。 |
翌年には大徳寺境内に信長の塔所・総見院を創建している。 |
本能寺の変が起こった当時の本能寺は、現在地ではなく、四条堀川の辺りにあったのだという。 跡地には本能寺跡の碑が建てられている。 |
信忠が自刃した二条殿址(二条御所址)にある碑。 焼けた二条殿の跡地には、信忠の菩提を弔うための大雲院が建てられている。 |
甲州征伐後、信長は甲斐善光寺の善光寺如来を美濃国の岐阜城下に移した。 善光寺如来は、武田信玄が信濃善光寺から移した絶対秘仏の尊像。 信長の横死は善光寺如来の祟りと噂されたらしい。 |
織田信長は善光寺如来の祟られた?〜本能寺の変〜 |
本能寺で自刃した信長と二条殿で自刃した信忠の遺骨は、阿弥陀寺に葬られたのだと伝えられている。 |
安土城の二の丸跡にある信長本廟は、1583年(天正11年)に羽柴秀吉が築いたもの。 |
本能寺は織田信長が京での宿所としていた寺。 |
京都市中京区寺町通御池下ル下本能寺前町522 地下鉄東西線「市役所前駅」下車すぐ |
大きい地図を見るには・・・右上のフルスクリーンをクリック。 |
|