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1582年(天正10年)6月2日早朝、明智光秀の軍勢が本能寺を包囲(本能寺の変)。 本能寺に一番乗りしたという本城惣右衛門の手記には、門は開いていたと記されている。 信長は、この騒ぎを下々の者の喧嘩と思っていたようだが、直に光秀の謀反であることが判明。 すると、「是非に及ばず」と言ったのだという。 辞書で調べてみると、「良い(是)も悪い(非)も言ってはいられない」という事から、「仕方がない」という意味なのだとか。 一般的な説でも、明智勢が本能寺に突入してくる中、脱出不能と判断し、「仕方がない」という諦めの意味で発した言葉だとされているが・・・ 信長は何張もの弓が切れるまで戦い、弓の替えがなくなると槍をもって戦ったのだという。 したがって、「是か非かはどうでもよい。戦え!」という命令だったという説もある。 『信長公記』には「是非に及ばずと、上意候」とある。 |
当時の本能寺は、現在地ではなく、四条堀川の辺りにあったのだという。 跡地には本能寺跡の碑が建てられている。 |
信長から家督を譲られていた長男の信忠は二条殿(二条御所)で自刃。 |
本能寺は、1592年(天正20年)、豊臣秀吉の命により現在地に移転。 |
信長公廟は、三男信孝の命によって建てられたという。 |
本能寺の変は起こる直前、徳川家康と穴山梅雪は安土城を訪問し、接待を受けていた。 |
安土饗応〜織田信長・徳川家康・明智光秀と本能寺の変〜 |
その後、遊覧していた堺で本能寺の変を知り、伊賀越えで岡崎城を目指すことに。 |
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