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1600年(慶長5年)6月16日、会津征伐のため大坂城を発った徳川家康は伏見城に入った。 6月18日、伏見を発った家康は7月1日に江戸に到着。 そして、7月21日、会津の上杉景勝を征伐するため出陣。 その間、毛利輝元・宇喜多秀家・前田玄以・増田長盛・長束正家・小西行長・大谷吉継・石田三成が豊臣秀頼のため決起したことが上杉景勝に伝えられる。 7月17日には、「内府ちかひの条々」(家康に対する弾劾状)が作成されて全国の諸大名に発せられ、家康への宣戦が布告された。 同日、家康の会津征伐に従軍していた細川忠興の妻ガラシャは、三成の人質要求を拒否し、家老の小笠原秀清らとともに自刃。 7月19日には、毛利輝元が大坂城に入城している。 |
豊国神社は豊臣秀吉の死後、秀吉を祀るために創建された神社。 7月18日、石田三成は豊国神社を参拝している。 |
三成らが挙兵すると伏見城を守っていた鳥居元忠らは籠城を決定。 兵力は、城兵1800人と、大坂城西の丸を追放された500人。 7月19日、西軍勢による伏見城の攻撃が開始され、22日には宇喜多秀家が、23日には小早川秀秋が攻め手に加わった。 初めから玉砕を覚悟していた鳥居元忠は、降伏勧告の使者を斬殺して遺体を送り返し、13日間もの間、戦い続けた しかし、8月1日、鈴木重朝との一騎討ちで討死(享年62)。 その他、内藤家長・松平家忠・松平近正ら800人が討死した。 |
伏見城は豊臣秀吉が築いた城。 秀吉の死後、家康が伏見城に入っていた。 |
知恩寺は、浄土宗開祖の法然が念仏を説いた賀茂の禅坊を前身とする寺。 討死した鳥居元忠の墓がある。 |
家康が三成の挙兵を知ったのは7月24日。 下野国の須賀神社で軍議を開いた家康は(小山評定)、参籠して関が原の戦勝を祈願したのだという。 そして・・・ 9月15日、天下分け目の関ヶ原の戦いで家康は三成に勝利。 |
鎌倉と徳川家康〜関ヶ原の戦い〜 鳥居元忠〜伏見城で討死にした三河武士の鑑〜 細川ガラシャの最期〜関ヶ原の戦い〜 |
養源院は、淀殿が父・浅井長政と祖父・浅井久政らの追善のため建立した寺。 妹の崇源院は、大坂の陣で自害した淀殿と秀頼の供養を営んだのだという。 間もなく落雷で焼失してしまうが、崇源院が伏見城の遺構を用いて再興。 本堂の天井は、伏見城の戦いで自刃した兵士らの血で染まった廊下を使用しているのだという(血天井)。 血天井は、勝林院の塔頭宝泉院・正伝寺・源光庵・瑞雲院・宇治市の興聖寺に今も伝えられている。 |
岐阜県不破郡関ヶ原町 JR東海道本線「関ヶ原駅」下車 |
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