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宝台院(ほうだいいん)は、1507年(永正4年)、鎌倉の光明寺第九世の観誉祐崇(かんよゆうそう)が開創した龍泉寺を始まりとする浄土宗の寺院。 1589年(天正17年)、駿府城で死去した徳川家康の側室西郷局が葬られ・・・ 1628年(寛永5年)には、西郷局に正一位が贈られ、戒名も「宝台院殿一品大夫人松誉定樹大禅定尼」とされたことから宝台院と呼ばれるようになったのだという。 正式名称は金米山宝台院龍泉寺。 1868年(慶応4年)、最後の将軍となった徳川慶喜がこの寺に入って謹慎している。 |
鎌倉の光明寺の「お十夜」は、1495年(明応4年)、観誉祐崇が宮中で「阿弥陀経」の講義を行い、真如堂の僧とともに「引声念仏」を修したことで、後土御門天皇より勅許された。 これが浄土宗寺院での「お十夜」の始まりとなる。 |
宝台院の本尊は快慶作の「白本尊」(しろほんぞん)。 当初は白く塗られていたと考えられるため「白本尊」と呼ばれている(国重文)。 家康の守り本尊だった阿弥陀如来立像で、三河国の大樹寺の十三代住持・登誉天室から譲り受けたものなのだという。 登誉天室は、桶狭間の戦い後に大樹寺で自害しようとした家康を諭したという僧。 もう一つの念持仏「黒本尊」とともに駿府城に安置されていたが、1617年(元名3年)、徳川秀忠が宝台院に寄進したのだという。 |
徳川将軍家の菩提寺増上寺の安国殿に祀られているのは「黒本尊」(くろほんぞん)。 宝台院の白本尊とともに家康の守り本尊だった阿弥陀如来立像。 源義経が三河国岡崎の長者に預けていたものなのだという。 |
西郷局は、二代将軍徳川秀忠・清州藩主松平忠吉の生母。 通称は、お愛の方。 1589年(天正17年)5月19日、駿府城で死去(38歳)。 自らが強度の近眼であったため、盲目の女性の生活を保護していたという西郷局。 寺の西側には、そのための屋敷があったのだという。 |
〜信康が切腹させられ、秀康が養子に出されて後継者となった秀忠〜 |
築山殿〜正室を殺害し嫡男信康を自害させた徳川家康〜 松平信康〜切腹させられた徳川家康の嫡男〜 長勝院・お万の方〜結城秀康を産んだ徳川家康の側室〜 西郷局・お愛の方〜徳川秀忠を産んだ徳川家康の側室〜 |
ジュリア おたあは、豊臣秀吉が行った朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の際に日本に連行された女性。 キリシタン大名の小西行長に引き取られ、キリシタンの洗礼を受けたのだという。 関ヶ原の戦い後、小西行長が処刑されると徳川家康の侍女となり、伏見城・江戸城・駿府城で仕えた。 しかし、家康は1612年(慶長17年)にキリシタン禁教令を発布。 ジュリアはキリシタン棄教を拒否した上、側室となることも拒否したため、神津島へ流されたのだという。 キリシタン灯籠は駿府城にあったもの。 |
徳川慶喜は、江戸幕府十五代将軍。 1867年(慶応3年)、二条城で政権を朝廷に返上する決定をして明治天皇に奏上(大政奉還)、将軍職を辞した。 翌1867年(慶応4年)、鳥羽・伏見の戦いが起こると大坂城に入って兵を出すが敗北。 江戸城が開城すると、水戸で謹慎。 その後、駿府に移って謹慎することとなる。 翌年、謹慎を解かれ、紺屋町元代官屋敷(現在の浮月楼)に移っている。 |
慶喜が将軍に就任する前から仕えていた渋沢栄一は、慶喜が駿府で暮らすようになると、新政府に出仕するまでは静岡で活動。 のちに栄一は、慶喜の功績を称えるため『徳川慶喜公伝』を著している。 |
静岡市葵区常磐町2−13−2 JR静岡駅から徒歩8分 |
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