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圓徳院(えんとくいん)は、豊臣秀吉の正室・北政所(寧々)が晩年を過ごした地で、終焉の地ともいわれる。 秀吉の没後の1603年(慶長8年)、後陽成天皇から「高台院」の号を賜った北政所(寧々)は、秀吉の菩提を弔うための高台寺建立を発願。 1605年(慶長10年)には、伏見城の化粧御殿とその前庭を東山に移築して移り住み(高台院屋敷と称された。)、翌年、高台寺を完成させている。 高台寺建立にあたっては徳川家康も支援したのだという。 このころ、家康は北政所を通じて大坂城の淀殿に臣下の礼をとるよう伝えたのだといわれる(1615年(慶長20年)、豊臣家は滅亡。)。 その後、高台院(北政所・寧々)は、兄の木下家定とその次男・利房に支えられながら、19年間を高台院屋敷と高台寺で過ごし、1624年(寛永元年)9月6日に死去。 高台院屋敷は、1632年(寛永9年)、利房によって高台寺の塔頭・圓徳院に改められ、木下家の菩提寺となった。 臨済宗建仁寺派。 本尊は釈迦如来。 |
豊臣秀吉が好んだ手水鉢で、秀吉から西尾家に贈られたが、のちに圓徳院に寄贈されたのだという。 |
歌人・木下長嘯子(きのした ちょうしょうし)を祀る。 長嘯子は、高台院の兄・木下家定の嫡男で、名は勝俊。 |
三面大黒天は、豊臣秀吉の念持仏だったとされ、堂には三面大黒天像の写しが祀られている。 若い頃、秀吉は子どもたちが拝んでいた三面大黒天を譲ってもらい、祈念していたのだという。 そして天下人になれたのだとか。 |
伏見城は豊臣秀吉が築いた城。 秀吉没後は徳川家康が入城するが、1619年(元和5年)に廃城が決定された。 |
高台院が伏見城から移築した化粧御殿は、高台寺に移築されて小方丈として使用されていたが、1863年(文久3年)に焼失してしまったのだという。 |
宗旦狐は、千宗旦(千利休の孫)に化けて相国寺の茶会で宗旦に代わってお点前をやってのけたという伝説の狐。 圓徳院に置かれていました・・・ |
相国寺の宗旦稲荷社は、伝説の宗旦狐を祀った社。 |
京都市東山区下河原通八坂鳥居前下る下河原町530 |
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