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鹽竈神社の文治の燈籠は、1187年(文治3年)7月10日に藤原忠衡が寄進したもの。 忠衡は奥州藤原氏三代当主・藤原秀衡の三男。 秀衡は、1187年(文治3年)2月、源頼朝に追われ平泉へ逃げ延びた源義経を庇護。 忠衡は、奥州藤原氏と義経の平穏を願って燈籠を寄進したのだという。 その年の10月29日、秀衡が死去(藤原秀衡の死)。 秀衡は、臨終にのぞみ、長男・国衡と次男・泰衡を呼んで 「義経を主君として仕え、ともに団結して頼朝の攻撃に備えよ」 と遺言したのだというが・・・ 四代当主となった泰衡は、頼朝の圧力に屈し、1189年(文治5年)閏4月30日、衣川館の義経を襲撃して自刃に追い込んでしまう。 義経を大将軍にして頼朝に対抗しようとしていた忠衡も6月26日に誅殺された。 その後、平泉は頼朝に攻められ、9月3日、泰衡が家臣に殺されたことで奥州藤原氏は滅亡している(奥州征伐)。 それから500年後の1689年(元禄2年)5月9日、鹽竈神社を参詣した松尾芭蕉は、燈籠に感銘し、『おくのほそ道』に忠衡を「勇義忠孝の士」と記している。 そして、5月13日、平泉に到着した芭蕉は、義経が自刃した衣川館跡で「夏草や 兵共が 夢の跡」と詠んでいる。 |
源平合戦の英雄源義経が自刃した地。 |
宮城県塩竈市一森山1-1 JR仙石線「本塩釜駅」から徒歩15分 |
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