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1180年(治承4年)8月17日、源氏再興の挙兵を果たした源頼朝は、10月には鎌倉に入り、関東・伊豆を平定、10月20日、平家の東征軍を富士川で迎え撃ち敗走させた。 翌日には、黄瀬川八幡の地に本営を置き、奥州平泉より駆けつけた弟の源義経と涙の対面を果たしている。 その時、頼朝によって勧請されたのが、この八幡神社だともいわれているが、創建年は定かではない。 祭神は、応神天皇・比売神・神功皇后。 |
富士川の戦いに出陣した源頼朝は、平家を敗走させ黄瀬川に陣を布いた。 その折、奥州平泉から駆けつけた弟の源義経と対面。 境内には、兄弟が腰を掛けたという「対面石」(たいめんせき)が残されている。 |
1180年(治承4年)10月21日、富士川で平家軍を敗走させて黄瀬川の宿に戻っていた頼朝のもとに、面会を求める若者がいた。 それが義経だった。 頼朝は、涙を流しながら喜んだのだという。 義経は、1159年(平治元年)の平治の乱で父源義朝が平清盛に敗れた後、母の常盤御前が再嫁した一条長成のもとで育てられ、11歳のときに鞍馬寺に預けられるが、17歳のときに鞍馬寺を出奔し、奥州平泉の藤原秀衡のもとに身を寄せていた。 義経との涙の対面 源義経の奥州下り〜平治物語〜 『義経記』が描く源義経の奥州下り |
源義経の同母の兄には、全成と義円がいる。 平治の乱後、二人は出家して、全成は醍醐寺に、義円は園城寺に入っていたが、1180年(治承4年)、源頼朝が挙兵すると、二人とも寺を出ている。 |
頼朝と義経・・・涙の対面(okadoのブログ) 東征軍の敗走・・・富士川の戦い(okadoのブログ) |
源頼朝が柿を食べようとしたところ渋柿だったため、種をねじって捨てた。 すると、後に出た芽が2本の木に成長し、幹をからませねじりあっていたことから「ねじり柿」と呼ばれるようになったという。 |
八幡神社の手水は、柿田川の湧水を引いているのだという。 |
源頼朝に信仰された八幡神社。 戦国時代には、今川氏・北条氏によって保護された。 徳川家康は、「八幡大菩薩」と刻んだ神刀を奉納している。 |
静岡県駿東郡清水町八幡39 JR三島駅、JR沼津駅よりバスで15分 |
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