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『平治物語』によれば・・・ 奥州の金商人吉次が京へ上ったついでに鞍馬寺を参詣した時の事。 遮那王は、吉次に奥州へ連れていってくれるよう頼みます。 吉次が共をすることを約束したところへ、吉次の同道者が参拝にやって来ます。 源頼政の家人で下総国の深栖頼重でした。 遮那王は自分が源義朝の末子で、鞍馬寺に預けられていることなどを話し、下総へ連れていってくれるよう頼むと、頼重は承諾しました。 |
そして、1174年(承安4年)3月3日、遮那王は鞍馬寺を出奔。 その晩、鏡の宿に到着し、夜のうちに元服して源九郎義経と名乗ります。 |
黄瀬川の宿に着くと、義経は兄の頼朝のいる北条に寄ろうとしたようですが、頼重が「後で手紙で知らせたらどうか」と言うので通り過ぎたのだとか。 下総に至った義経は、一年ほど深栖光重(頼重の父)のもとで暮らしていました。 しかし、平家に知られてはまずいので奥州を目指すことにします。 この時、義経は伊豆へ赴いて頼朝と対面し、奥州へ下ることを報告します。 頼朝は、「亡父・義朝の妾で上野国の大窪太郎の娘が、奥州へ下って藤原秀衡の郎等の佐藤基治の妻となり、二人の子をもうけ、今は後家となっている。そこを訪ねるとよい」 と義経にすすめ、手紙を与えたのだとか。 奥州へ向かった義経が尼を訪ねると、子の継信と忠信の兄弟を共に付けてくれました。 さらに多賀の国府を越えたところから、吉次の案内で藤原秀衡のいる平泉に辿り着いたのだそうです。 |
なお、義経は、奥州へ下る途中で上野国の松井田に一泊しますが、宿の主人だったのが、後の伊勢義盛だったのだとか。 そして、吉次は堀景光となったのだとか。 参考までに・・・ 『吾妻鏡』によると、義経が1185年(元暦2年)に書いた「腰越状」には、諸国を流浪し、あちらこちらに身を隠していた事や、都から遠く離れた国で、土地の人や百姓に仕えて暮らしていた事などが記されています。 おそらく、奥州へ下る時の事を書いたのでしょう。 |
『義経記』が描く源義経の奥州下り |
奥州下りの途中で三河国矢作宿に立ち寄った義経。 浄瑠璃姫との悲しい別れが・・・ |
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