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『義経記』によると・・・ 鞍馬寺に預けられていた牛若(源義経)に出生の秘密を告げたのは、牛若の父・源義朝の郎党・鎌田政清の子だったのだといいます。 平治の乱で父政清が長田忠致に討たれた時は11歳。 母方の親戚に匿われ、19歳で元服して鎌田正近と名乗ります。 21歳のときに出家して九州へ赴き修行をした後、四条室町に住んでいました。 法名は聖門坊。 四条の聖とも呼ばれていたそうです。 |
聖門坊の父鎌田政清は、義経の父義朝の第一の郎党。 1159年(平治元年)、平治の乱で敗れると、東国で再起を図るため義朝ととも京を脱出し、尾張国野間の長田忠致を頼りますが、忠致の裏切りに遭い、義朝とともに殺害されました。 野間大坊の義朝墓の傍らには、政清の墓も建てられています。 |
日ごろから、平家の繁栄をよく思っていなかった聖門坊は、源氏に仕えて謀反を起こすことを考えます。 そうしたとき、牛若の噂を耳にした聖門坊は鞍馬へ上ります。 聖門坊は牛若にこう話かけます。 「貴方様は、清和天皇より十代の子孫・源義朝様のお子です。 私は、義朝様の乳母子の鎌田政清の子です。 一門の源氏は国々に打ち籠められておられます。 心苦しいこととは思われませんか・・・」 聞いていた牛若が「平家全盛の世にこのような話をするのは、騙そうとしているのだろう」 と思っていると、聖門坊は源氏代々の話を詳しく話したのだそうです。 |
それからの牛若は、学問の事は忘れ、平家に反旗をひるがえすことで頭がいっぱいになります。 そして、夜になると、心身を鍛えるため、誰にも知られぬように宿坊を抜け出し、鞍馬山の奥の僧正が谷の貴船明神に参り、 「南無大慈大悲の明神、八幡大菩薩」と掌を合はせて、源氏を守ってくれるよう祈り、草木を相手に太刀を振るい心身を鍛錬したのだそうです。 |
しかし、牛若に付き添っていた和泉という法師が、牛若の行動を牛若の宿坊・東光坊の蓮忍に報告すると、牛若の髪を剃るということに決まります。 ただ、牛若は誰かが近づくと刀の柄に手を掛け突き刺そうとしていたので、なかなか髪を剃ることができませんでした。 そこで、覚日坊であれば静かなので学問をするのではないかという話になって、牛若を覚日坊に移し、名も遮那王と改められました。 それから遮那王は貴船明神に参拝することはなくなり、毎日、多聞堂で謀反の事を祈っていたのだとか。 |
義経供養塔は、幼少の牛若が住んでいた東光坊の跡に建てられています。 |
年が改まって2月。 遮那王は16歳になっていました。 その頃、毎年奥州へ下る金売り吉次という商人がいました。 鞍馬寺の信者だった吉次が多聞堂を参ったとき、遮那王と出会います。 奥州平泉の藤原秀衡は、源氏の若君を迎えて君主とし、息子には陸奥と出羽を治めさせたいという願望があることを知っていた吉次は、遮那王を説得します。 そして、遮那王は1174年(承安4年)2月2日明け方、鞍馬寺を出て、吉次とともに奥州平泉へと旅立ちます。 聖門坊も見送ったのだそうです。 |
背比べ石は、奥州に下る遮那王が名残を惜しんで背を比べた石と伝えられています。 |
京を出てから三日目、遮那王と吉次は尾張国の熱田宮に到着。 稚児姿のままで奥州へ下るのはよろしくないと考えた遮那王は、ここで元服します。 大宮司が烏帽子を用意し、遮那王の髪を取り上げ、烏帽子を着せたのだそうです。 元服後の名は九郎義経。 |
義経の父義朝の正室は熱田神宮大宮司藤原季範の娘由良御前でした。 |
こうして平泉へと辿り着いた源義経は、約6年間を藤原秀衡の庇護のもとで暮らします。 |
源義経の奥州下り〜平治物語〜 |
奥州下りの途中で三河国矢作宿に立ち寄った義経。 浄瑠璃姫との悲しい別れが・・・ |
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