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1180年(治承4年)8月から9月、後白河法皇の皇子・以仁王が発した平家打倒の令旨によって、伊豆の源頼朝・甲斐の武田信義・信濃の木曽義仲などの源氏が挙兵。 平清盛は追討軍を派遣するが、10月20日、平維盛・忠度を大将とする平家軍は、富士川の戦いで源頼朝と武田信義の連合軍に敗走させられた。 その後、美濃や近江などの源氏も挙兵し、各地で反平家の動きが活発になる中、翌年には以仁王の令旨を全国の源氏に届けた源行家が尾張に進出。 清盛は平宗盛に追討させようとしたが、閏2月4日に死去。 閏2月15日、平家一門の棟梁なった宗盛は、平重衡を大将とする追討軍を尾張に派遣することに。 『吾妻鏡』によると・・・ 1181年(治承5年)3月10日、両軍は墨俣川を挟んで対峙。 行家は子の光家・行頼、義円、山田重満など尾張・三河の勇士を引き連れて墨俣川の東岸に布陣。 西岸の平家軍は、重衡・惟盛・通盛・忠度・知度・盛綱・盛久ら。 晩になって行家は奇襲を企てて渡河するが・・・ 馬を洗おうと川にやってきた重衡の舎人・金石丸が、渡河した行家軍を発見して重衡に報告。 行家軍は出撃する前に重衡の軍隊に攻め込まれ、義円と山田重満が討死、行家の子・行頼は生け捕られた。 死傷者は690余人になる大敗北だったが、行家は逃亡して熱田神宮に身を潜めたのだとか・・・ |
※ | 源行家は、頼朝・全成・義円・義経の叔父。 |
※ | 山田重満は、のちの承久の乱で朝廷側として活躍する山田重忠の父。 |
※ | 山田重満の弟重長は足助氏の祖で、娘の辻殿は源頼家の正室となり公暁を産んでいる。 |
義円(ぎえん)は、1555年(久寿2年)に河内源氏の棟梁源義朝の八男として誕生。 母は常盤御前。 阿野全成と源義経は同母兄弟。 源頼朝は異母兄。 1159年(平治元年)の平治の乱で父義朝が平清盛に敗れた後、園城寺に入って出家。 1181年(治承5年)、叔父・源行家の挙兵に参陣するが、墨俣川の戦いで討死した。 『吾妻鏡』には頼朝の下に参じた記録はないので、義円の行動について頼朝が関与していたかどうかは不明。 |
義円公園には、義円地蔵堂・供養塔・源平墨俣川合戦場碑が建てられている。 墨俣は、1221年(承久3年)、後鳥羽上皇が打倒北条義時の挙兵をした承久の乱の合戦場にもなった。 岐阜県大垣市墨俣町下宿39−1 |
義円の墓は、義円公園から約150m。 |
激戦が繰り広げられた墨俣川は、現在の長良川。 |
源平墨俣川古戦場の北にある墨俣城は、戦国時代に木下藤吉郎(豊臣秀吉)が一夜にして築いたと伝わる城。 |
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