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山 田 重 忠

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 山田重忠(やまだしげただ)は、源満政を祖とする尾張源氏。

 尾張国山田郡を本拠とした。

 『平家物語』によると、1180年(治承4年)、以仁王が全国の源氏に発した平家打倒の令旨は、重忠のもとにも届けられている。

 『吾妻鏡』によると、父の山田重満は1181年(治承5年)3月10日の墨俣川の戦い源行家に加勢して討死している。

 二代将軍源頼家の正室・辻殿は重忠の従兄妹で、三代将軍源実朝を暗殺した公暁を産んでいる。



源平墨俣古戦場
リンクボタン源平墨俣古戦場
(大垣市)





 1183年(寿永2年)7月、木曽義仲が入京すると上洛。

 源氏の一員として京中守護の任に就いていたが、翌年、源頼朝が義仲を滅ぼすと鎌倉御家人に列した。

 ただ、美濃・尾張に勢力を誇っていた山田一族は朝廷との繋がりも深かった。


 1221年(承久3年)5月、後鳥羽上皇北条義時追討の院宣を発して挙兵すると、重忠はこれに参じた。

 上洛するため進軍してきた幕府軍を迎え撃つため、大将軍の藤原秀澄とともに墨俣に陣を敷いた重忠だったが・・・

 兵力を分散させる策を採ろうとしていた秀澄に、兵力を集中して攻撃するよう進言するが受け入れられなかったのだという。

 6月6日夜明け、幕府軍が木曽川の摩免戸(まめど)を渡ると、朝廷軍は矢も飛ばさずに次々に退却。

 重忠は杭瀬川に陣を敷いて奮戦するが、朝廷軍は総崩れとなり、重忠も退却した。

 『承久記』(慈光寺本)によると、重忠は武蔵七党の児玉党と激しく戦い百余騎を討ち取ったのだという。

 6月12日には、比叡山の僧兵三千数騎を率いて瀬田で幕府軍を待ち受けるが敗北(『吾妻鏡』)。

 『承久記』(慈光寺本)によると、6月14日、三浦胤義・源翔らとともに院御所の高陽院殿に参上して最後の戦いに臨もうとしたが門前払いとなり、東寺に立て籠もって戦ったのだという。

 鎌倉軍15騎を討ち取る奮戦した重忠だが、手勢の多くが討ち取られたため、嵯峨に落ちて自刃した。


藤原秀澄は、北条政子に逆臣と名指しされた藤原秀康の弟。



北条政子の言葉


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