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源頼家が修禅寺に流された頃、夜叉王という面作り師がいた。 頼家は、夜叉王に自分の顔の面を注文する。 しかし、何度作っても面に死相が現れ、なかなか完成させることができなかった。 半年が経った秋の晩、頼家は面の催促に夜叉王を訪れる。 夜叉王は「面に死相が出てしまいお渡しできない」と話すと、頼家は激怒して夜叉王を斬ろうとしたが、それを止めに入った娘の桂(かつら)が死相のある面を頼家に献上。 桂はそのまま頼家のもとに出仕して側女となった。 その後、頼家は討手に襲われて命を落とすことに。 頼家の身代わりになるため、頼家の面を付けて奮戦した桂も瀕死の状態で実家へと落ち延びるのだが・・・ 夜叉王は、死相の現れた面は、自分の技量が足りないからではなく、頼家の運命を予言したものだったことを悟り、瀕死の娘の顔を写しとろうとするのだった・・・。 |
「頼家の仮面」は、二代将軍源頼家が幽閉されていた修禅寺に伝えられるもの。 頼家のものと伝わるだけで詳細は不明。 舞楽の面なのかと・・・ 岡本綺堂は、この面を拝観して『修禅寺物語』を描いたのだという。 |
虎渓橋(こけいばし)は、修禅寺の門前を流れる桂川に架けられた橋。 北条政子が頼家の冥福を祈るため指月殿を寄進した際に掛け替えが行なわれたのだという。 『修禅寺物語』では、この橋の袂で頼家の側女となった桂が「若狭局」という名を与えられる・・・ 若狭局は、比企能員の娘で比企能員の変で井戸に身を投じたという頼家の側室。 |
伊豆の国市の光照寺には、頼家の「病相の面」が伝えられている。 北条政子が病の頼家の様子を写させた面なのだとか。 |
1203年(建仁3年)9月29日、修禅寺に幽閉された頼家は、翌年7月18日に暗殺された。 |
「修善寺」という地名は、弘法大師によって開創された修禅寺をその由来としている。 |
静岡県伊豆市修善寺964 伊豆箱根鉄道駿豆線「修善寺駅」より 修善寺温泉行バス。 「修善寺温泉」下車 |
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