鎌倉手帳(寺社散策)

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金 剛 寺
〜曹洞宗の古刹:厚木市飯山〜

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飯山:金剛寺


 807年(大同2年)に弘法大師によって建立されたと伝わる。

 古くは、七堂伽藍の備わった寺院だった。

 飯山観音の入口ともなっている小鮎川に架かる朱塗りの橋は「庫裡橋」と呼ばれ、金剛寺の庫裡に向かって架けられていたといわれている。

 鎌倉時代には、鎌倉の覚園寺や金沢の称名寺とも繋がりのある律宗寺院として栄え、相模国の華厳学研究の拠点としても栄えた。

 天文年間(1532〜1554年)に曹洞宗に改宗され再興されている。 





〜『吾妻鏡』と厚木の養蚕〜

 鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』の1182年(養和2年)の条には、金剛寺の僧侶が、寺に対して山狩りや蚕養(こかい)などの公事を課していた近藤太能成を訴えたことが記されている。

 かつて、養蚕は、厚木の主産業であり、明治期には日本を支えた基幹産業として発展した。

 『吾妻鏡』の記載から、飯山では鎌倉時代にすでに養蚕が行われていたと考えられ、古くから厚木の主産業であったことが想像できる。





〜木造阿弥陀如来坐像〜

 平安時代後期の作と考えられ、当時の流行であった定朝様式の特徴が示されているという。

 像内の墨書から、永享年間(1429〜1440年)以降に数度の修理が行われていることが確認された。

 阿弥陀堂に安置されていた像と考えられ、国の重要文化財に指定されている。


〜木造地蔵菩薩坐像〜

 像内の銘により、1299年(正安元年)、京都の仏師院慶によって造立されたことが判明している。

 別名を「身代わり地蔵」という。

 その昔、地蔵堂を守っていた者が侵入者に切られてしまった。

 切られた者に同情したお地蔵さまは、自分の身に傷を肩代わりしたと伝えられている。

 その傷跡が頭部と背中に残されていたが、修理されて今はないという。

 このような伝説から健康と安全を願う人々に信仰されてきた。

 像は、庫裡橋近くにあった黒地蔵堂に安置されていたといわれ「黒地蔵」とも呼ばれている。





飯山:金剛寺大師堂
大師堂

 大師堂は、大同年間(806〜809年)の創建とされ、寺伝によると安置されているのは弘法大師が34歳のときの自作の尊像であるという。


金剛寺大師堂

 大師堂の周りは、石造の百体地蔵が奉納されている。









〜源頼朝の側近安達盛長〜

安達盛長の墓
安達藤九郎盛長の墓

 大師堂の横には、源頼朝に仕えた安達盛長の墓と伝えられる五輪塔がある。

 収蔵庫には、「法名盛長院三空道無大居士安達籐九郎」と銘記された位牌も残されているという。


三田八幡神社
リンクボタン八幡神社
(厚木市三田)
安達盛長の墓
リンクボタン安達盛長の墓
(厚木市三田)


 『新編相模国風土記稿』によると、建久年間の三田地区は、安達盛長の領地で、屋敷もあったのだという。

 三田八幡神社は、盛長が鶴岡八幡宮を勧請して再建したという社。

 神社の近くには、盛長の墓と伝わる石塔が残されている。


飯山観音・長谷寺
リンクボタン飯山観音・長谷寺

 坂東観音札所の飯山観音は、源頼朝の命により安達義景(盛長の孫)によって堂宇が建立されたのがはじまりともいわれている。

 ただ、義景が生れたのは頼朝の死後のこと。





亀甲の松
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歴史めぐり源頼朝




飯山:金剛寺
金剛寺

厚木市飯山5456

小田急線「本厚木駅」
北口より『神奈中バス』D番のりば
宮ケ瀬行 上煤ケ谷行 上飯山行に乗車
「飯山観音前」下車 庫裡橋を渡ってすぐ


飯山庫裡橋
庫裡橋


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