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飯山観音の正式名称は「飯上山長谷寺(ちょうこくじ)」。 高野山真言宗。 坂東観音巡礼第6番の札所として知られ「飯山観音」の名で親しまれている。 725年(神亀2年)に行基によって開かれたとも、810〜824年の弘仁年間に弘法大師(空海)よって開かれたとも伝えられている。 また、源頼朝が秋田城介義景(安達義景)に命じて堂宇を造営させたのが、この寺のはじまりとも伝えられている。 |
本尊の十一面観音は、1672年(寛文12年)に飯山村の大工西海氏によって造られた厚木市指定の文化財の「厨子」の中に安置されている。 胎内には行基がクスノキで造ったという尊像が納められているのだという。 本尊開扉は、12月大晦日、1月1日〜3日、4月8日、11月3日。 胎内の行基作の尊像は、白山山頂の白山神社に祀られていた十一面観音とも伝えられている。 |
鎌倉の長谷寺の本尊・十一面観音像は、開山の徳道がクスノキの霊木で彫らせた二体の観音像のうちの一体。 もう一体は奈良の長谷寺に安置されたのだと伝えられている。 そして・・・ 紫式部ゆかりの京都大雲寺の本尊十一面観音は、行基が奈良の長谷寺や鎌倉の長谷寺の十一面観音と同じ霊木で造立したのだという。 もしかすると飯山観音も・・・ |
伝承では、源頼朝が安達義景に命じて観音堂を建立させたとされているようだが・・・ 義景は頼朝に仕えた安達盛長の孫で、生れたのは頼朝の死後。 ただ、麓の金剛寺には盛長のものと伝えられる五輪塔があり、位牌も残されていることから、観音堂造営に安達氏が関わった可能性はあるのかもしれない。 |
※ | 現在の観音堂は、江戸時代の建立と考えられ、厚木市指定文化財。 |
安達盛長は、源頼朝が伊豆国の蛭ヶ小島の流人だった頃からの側近。 『新編相模国風土記稿』によると、建久年間、相模国愛甲郡三田村(厚木市三田)は、盛長の領地で屋敷もあったのだという。 三田の八幡神社は、盛長が鶴岡八幡宮を勧請して再建したという社。 |
1442年(嘉吉2年)の銘文のある銅鐘で清原国光の作。 国光は飯山の鋳物師。 銘は建長寺145世の一華心林によるもの。 銘文によると、 「この年の春に新長谷寺が火災により焼失するが、人々の銅鐘鋳造の願いが強いことから、新堂宇の再建に先立って、麓の金剛寺の住職だったァ勝が寄付を集めて完成した銅鐘」 という。 |
時の住僧が例鳴を怠ったことから、銅鐘が一夜にして姿を消したという。 のちに夢告によって地中から掘り出されたという伝説から、「飯山の隠れ鐘」と呼ばれている。 |
仁王門と金剛力士像は1709年(宝永6年)、飯山村の安在金左衛門の建立寄進と伝えられている。 |
室町時代に多くの巡礼者や参拝者の長寿を祈願して植樹されたものと伝えられ、樹齢400年の古木。 「かながわの名木100選」に指定され、厚木市の「天然記念物」に指定されている。 |
飯山観音には亀甲の松と呼ばれた松があって、木肌が亀の甲羅のような模様になっていたという。 |
源頼朝ゆかりの大山寺・日向薬師・飯山観音を巡る |
飯山観音周辺の散策(okadoのブログ) 白山ハイキングコース(okadoのブログ) |
(飯山観音は「かながわの景勝50選」に指定されている。) |
小田急線「本厚木駅」 北口より『神奈中バス』D番のりば 宮ケ瀬行 上煤ケ谷行 上飯山行に乗車 「飯山観音前」下車 庫裡橋から徒歩10分 |
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